文化・芸術

「冒険王・横尾忠則」展に行ってきた

今日は旧き強敵(とも)と一緒に、世田谷美術館でやってる「冒険王・横尾忠則」展に行ってきた。
用賀の駅から緑したたるプロムナードを、「道案内があちこちにあってわかりやすいね~」 「うわ、住宅展示場みたいなデカイ家ばっか!」 「倉庫でお花屋さん&アンティーク……オシャレすぎだぁ」 「ベンチが広い!浮浪者の寝邪魔用の手すりもない!」などとビンボくさい地元といちいち比較して、おのぼりさんモードを楽しみつつ散策。緑が生い茂り森林浴気分な砧公園を、気持ちよくあるいて、さて美術館へ。

今日は荒俣宏との対談もあるとのことだったが、12時半頃の到着でやはり対談チケットは完売。最初からムリとあきらめていたのでかまわない。ざこざこと見て回る。

この人の絵は、「この一点が好き!」というよりも、「何喰ったらこんな配色センスが生じるんだ……」ってな色遣いや、出所が知れないけど誰しもが感じるだろう独特なノスタルジーに、惹かれるものがある。でかいでかいキャンバスに縦横にかけめぐる、異様だけどビタッとハマってる鮮やかな色彩の奔流。

今回おもしろかったのは、グラフィック・デザイナー、イラストレーター時代の作品の大量展示。ざくっと奇抜で大胆な作品が実に細やかな神経に裏打ちされていることを見せつけられた。以前に「たけくまメモ」で存在を知って図書館で借りた「うろつき夜太」の原画があって、「おお」と感動。
また、夢をテーマにしたシリーズは、F6くらいの紙とアクリルと、F0くらいの小品を多々並べたものがあったが、どちらも狭い画面なのにふしぎな広がりがあって、「小さいサイズだから迫力ある絵が描けないんでないかな」などという自己弁護な詭弁を打ち砕かれた感じ。とほほ。

「赤い風景」のシリーズや、「Y字路」シリーズ、チャンバラや冒険活劇をモチーフにしたシリーズなど、魅力的な作品が多々あって、見応えは実にたっぷりだった。
しかし、「ではY字路シリーズの絵はがきをどれか一枚買って帰ろうか……」と思ったとたん、どれにも決められなかった。
おもうに、この人の絵は元形みたいなものを、それもアタマではなく手と目で扱っているから、ひとつのモチーフで無数のバリエーションが生まれ、そしてすべてが「途上の記録」として描かれることになるんではなかろうか。どの絵もすべて、ログの一部であって、ゴールではないというか。
そういえば、作品のひとつに 「人生にゴールはない」 と書き込まれていたっけな。
そしてY字路についてもこんな感じの言葉が(立ち読みウロ覚えなので意味が違ってても寛恕) “人生の岐路とかそういう意味は特にないんだ。だいたい僕の描くY字路はどっちにいっても闇じゃない。どっちかをえらぶようなもんじゃない。それにY字路の先にもまたY字路があって、またY字路があるんだろうし……。闇の中を進んでいって、自分の守護天使に出会って導かれてくような感じなんじゃない?”

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オスカール大岩「夢見る世界」展みてきた

疲労困憊してるけど、外の風にふれたほうが良さげなので、美術展に出かけることにした。
さて、どれがよかろうか、と展覧会情報サイトを見て回り、なんだか目が魅かれた、大岩オスカール幸男(さちお)の初の大規模個展「夢見る世界 - The Dreams of a Sleeping World」へ行くことにした。あ、ちなみに、オスカールの名は、サンパウロ生まれの日系二世だからであって、ネタではないので注意を(名前だけでウケそうな身内に向けて但し書き)。現在はN.Y.在住。

東京都現代美術館はアクセスが悪くて、今まで一度も行ったことがなかったのもある。なんとなく海の近くに行きたかったので、まぁ、上野よりは海に近くてよかろ、という気もあった。
行ってみたら、美術館までの道行きには江戸深川資料館なぞもあった。街並みにも江戸情緒がすこーし残ってて、「今度は早めに来てのほほんと散歩しよう」などと思わせられた。

この作家は「昭和40年会」(今は解散)がBankARTでイベントやってたりしたので名前は知っていたが、作品はよく知らなかった。わりとおだやかな作風だね、程度のもので。
しかし、現物はそうとうに良かった。特に色遣いが。そして作品がデカい!! 2m27×1m10(だっけ?)のパネルを何枚も並べて描いてた。

他の企画展や常設展もみたけど、そっちはお金のムダだったように思われ。あと、岡本太郎の「明日の神話」も飾ってあったよ。原爆の災禍を描いた絵なのに縄文の暗黒火祭り風になってるあたりが、いかにも岡本太郎だった。

そのあとは、かの「日本美術応援団」の山下祐二とオスカール大岩のトークイベントを、ちゃっかり最前列で聴いてきました。しかし……。「美大いって美術教師か美大専門予備校の講師になって……」てなにっぽんじんアーティストとのメンタリティの違いを思い知らされた感じでした。日本語は相当達者だし、おっとりしてマジメな日本人さらりまん風にしか見えない人なんだけど、やっぱり全然違う。あやふやな記憶だけど印象に残った話など。

◎小遣いが少なかったので、小中学生の頃から絵画コンクールに応募しては「賞金稼ぎ」してた。その賞品として13歳の頃にチリに一人で旅行に行ったことも。
◎美大とかは行かなかった(大学は建築専攻)。ちなみに、中学の頃に絵画コンクールか何かで美術学校に週一日だか通える特典を受けたが、自分は14くらいで周囲は18,9なので友達もできず、イヤな記憶になってるとか。
◎まったくツテもアテもないけど日本に来た。コンビニでDUDAを立ち読みして設計事務所に電話をかけて粘り、面接まで持ち込んだらそこの社長さんに気に入られて、就職先を紹介された。あとは「やりたいことをやっているうちにツテもできますし、必要なら何でも覚えていくもんです」てな感じで言っていた。「日本の仕事のやりかたや日本式接待なども現場で覚えた」とか。
◎カンバス一枚貼りでなくパネルを並べて描く理由→枠は同サイズに統一しとけば、世界のどこの拠点で個展を開くのでも、キャンバスだけ外して送れて輸送費の節約になる(パリやらニューヨークやらサンパウロやらで個展を開いて、顧客がアメリカやら中国やら世界各地に居たら、現実的な問題だよねぇ、たしかに)。
◎日本のアーティストのほとんどは特定画廊の丸抱えだが、自分はフリーでやってきた。イヤがられることもあるけど、やりたいことにギャラリーからダメ出しが出るのはイヤなので。デカイ絵は展示場所もコレクターも限られてきてしまうが、デカイ絵を描きたいし、量も描くようにしてる。
◎10万人のアーティストがいるというニューヨークに拠点を移して4年目で、ようやく食えてる5000人に入ってきた感じ。お子さんを学校に送り迎えしたあと、平日9時5時でぎっちり描いているとか。絵を描くことをビジネスとして成り立たせてるなぁ。

いろいろと刺激的な展覧会でした、ほんと。展覧会をあちこちハシゴしなくて正解だったな。

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共生関係

今日は千住真理子のリサイタルを聞きにみなとみらいホールへ。ずいぶん前にチケットをとったので、一階席のどまんなかの、かなりいい位置で聴けた。クラシックは知識も全然なく(超有名な曲でも曲名がまったく出てこない無知)善し悪しもわからないのだけど(ふだん聴いてないし)、千住真理子がストラディバリウスを入手したと騒がれてたときにCD借りて(←ミーハー)今もたまに聴いてるし、まぁナマで聴いてみるのも良かろうと行ってみたわけで。

この人の演奏はすごく巧いんだと思うけど、ひきずりこまれるものがない。毒気がなくて疲れない、とても上質なイージーリスニングとでもいうべきか。その毒気のなさは、湖水にうつる山影を見ているような気分になる。古めかしくいえばダイモーンの憑いてない、オタな人向けにいえばMHとファティマのみの組み合わせ、といえばいいのか。私なりの分類でいえば、アートというよりアルチザンのワザという感じだ。でも、ぜんぜん偏りがない演奏や非常に高度な名人芸というのも、それはそれで価値があり貴重だと思う。“魂をゆさぶる演奏”ばかりが音楽のありようでもなかろ。

わからないといえば、楽器の善し悪しや音の違いも良くわからないが、それでもストラディバリウスの音は音というより「かわった声」という気がした。なんだか生き物のように感じるのだ。奏者が「ストラディバリウスは、コンサートの初めと終わりでも音が変わってくるまるで生き物みたいな楽器なんです」と言っていたけど、それ以前に、なんだか妙に生き物めいたシロモノだった。途中からは、何か人形浄瑠璃とか腹話術とかの類を見せられているような気がしてきた。
楽器の形をした生き物が人間のエネルギーをつかって歌いたいように歌っているようにも見えるが、人間が楽器に振り回されるだけのヘタクソならばその「生き物」は命を持つことはない。人が楽器を使っているのではなく、楽器が人を使っているのでもない、なんだか不可思議なユニゾン。こういう関係になっちゃうのなら、演奏者にとっての楽器はただの道具なんてもんじゃすまないだろう、と納得した。なんといっても音楽では楽器がうたうのだし。

ちなみに奏者は「ストラディバリウスを鳴らすには五年かかると言われてます」とも話していて、今で六年目らしい。十年くらい経ったらまた聞いてみたいもんだ。ただその時には願わくば、もうすこしひきずりこんでほしいもんだとも思うなぁ。リラクゼーションだけが効能だったら、クラシック聞くよりマッサージのほうが良い気がする。

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もりだくさんの土曜日(アフリカンフェスティバル見てきたよ)

今日は、先々週にでかけた病院に検査結果を聞きに行く日だった。
朝一で出かけて、関内駅の改札を出てから、サイフを忘れたことに気づいてボーゼン。さわやかな朝にサザエさん状態。また家まで戻って往復一時間のロス。病院では異常なしを言い渡されるだけの正味五分間。

しょーもないので、散歩などたのしんで山下公園で昼を食べようと思った。まもなく「チューリップフェスタ」のはずの横浜公園を通って行ってみようかな……と思い、通りかかると、もはやチューリップ満開状態。みごとに咲き誇っているし、枝垂れ桜なんかも咲いてて、春の陽射しのなかで一面花だらけ。内側から光を放つような花の色彩にうっとりと見惚れ、この色はどんな絵の具を混ぜたら出るのやらなどとあれこれかんがえ、眼福なひとときを過ごす。

大さん橋までの道はすごい人出。山下公園では園内のローソンでおにぎりを買って海を眺めつつ食べる。最近、山下公園にはトビがたくさんやってきていて、「ほほー」と見ていると、一羽がさっと急降下して、落ちていた唐揚げか何かをかっさらって空に舞い上がった。と、それにバトルをしかけるもう一羽。争いでぽろりと落ちた唐揚げを別の一羽が空中で見事にキャッチ。曲芸のようだった。
大さん橋には世界一周クルーズにでかける「飛鳥Ⅱ」が停泊。さらに神奈川県警の船が三、四隻、交通安全週間ということで海面をパレード(ってほどハデじゃないけど)。港のある街ならではの楽しみ。

うららかな春の陽射しがここちよい。さらに思いだした。「たしか今日、赤レンガでアフリカンフェスティバルをやっていたような……」。ちょうど先週、ケニアのキクユ族文化をモチーフにしたSF「キリンヤガ」を読んだところなので(図書館でふと目にして試しに読んでみたら面白かったのだ)、アフリカづいてみるのも良いかもしれない、と足をむける。

てくてくと赤レンガ倉庫に歩いていくと、期せずして「春のフラワーフェスティバル」として、広場に大きな花壇がしつらえてあった。ここではパンジーやら忘れな草やらルピナスやらブルーデイジーやら何やらかにやら、春の花がみごとに咲き誇っていた。

またもや眼福したあと、足を踏み入れた赤レンガ1号館では、アフリカンフェスティバル開催中。最初のコーナーこそ地味っぽかったが、進んでいくたび、物販や、フードコートやらと華やかさが増す。なんでコンビニおにぎりなぞ食べてしまったのだろうと、心から悔やんだ。

さらに3階に進むと、ワークショップやライブのコーナーも。楽しそうなワークショップを覗き、次のライブまでは時間があるから帰ってしまおうか……などと思っていたら、ライブスペースでリハーサルがはじまった。面白いパーカッションの響きに、思わず椅子に座り込んで聴いてみる。パーカッションだけの生演奏は初めて聴いたが、あまりに音が多彩で、しかもリズムの呼吸が面白い。やがて逞しいアフリカ女性が出てきて、何やらマイクテストを始める。その声がまたパワフル。そのまま本演奏までずーっと、前から二番目の席で堪能させてもらった。

ちなみに聴いたのは、在日アフリカ人ニャマ・カンテさんのステージ。彼女の歌はクルマのCMなどにも使われたらしい。サイトではすらっとしたお姿だが、実際は逞しく円く、そしてチャーミングでした。なんでも、歌手といっても「グリオ」(一種の語り部)の家系の生まれ、つまり遡れば14世紀アフリカで栄華を誇ったマリ帝国の文化の流れを汲んでいるってわけで。詳しくはご本人サイトのプロフィール参照。

伴奏のパーカッション楽団「ジェリドン」(みな日本人)も素晴らしかった。メロディもリズムも多彩な「流れ」に聞き入るうち、ふと、乾いた大地に雨季のはじまりを告げる大粒の雨音なぞも連想した。また、ひとり参加してた知的障碍の人(特に紹介はなかったがそう思う)のパフォーマンスが生き生きとしてて惚れ惚れするほどに見事だった。芸術の瞬間では、ヨノナカのあらゆる制約やランク付けは意味をもたない。とっても命の洗濯をさせてもらった。
こんなライブが無料で聴けて感謝したので、来年以降のアフリカンフェスティバル開催に向けたチャリティも少ないながらも入れさせてもらった。

赤レンガの建物から外に出て、海側を見ると、「飛鳥Ⅱ」が大さん橋を離れた直後で、見送りの放水が海に向けて弧を描いてた。代わりに大さん橋の反対側に「にっぽん丸」が停泊していた。赤レンガの広場は善男善女でいっぱい。おだやかな春の一日。あとは桜並木の汽車道をあるいて桜木町駅へと向かった。

ちなみに。物販コーナーではシアバターをわずか500円で買えた。でも、小さなプラ容器に詰められ手製のラベルを貼られたこれは、精製などしていないのだろう、とっても青臭くて植物そのものな匂いがする。別に良い匂いでも何でもないが、ナマモノ感があるって物珍しくて新鮮だ。
ナマモノは人を元気にする。とってもナマモノ感に満ちた一日でした。

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粗忽なんだもん

毎週のたのしみ、お絵かき教室。
まだ勝手がわからないのでマトモに扱えないが、油絵の具はたまらなく良い! 油の量次第で水彩のようなクレヨンのような、ぺたぺた感がやめられない。最近は家にも道具を持ち帰って描いてみたりしてる……三連休とか、たっぷり余裕がある時だけんども。

このぺたぺた感のおかげで、描けた作品のデキではなく描いてる途中のたのしさが本命になっている。なので、格段の上達を遂げたりはしないけれど、そこらへんは苦にしない。哲学者の中島義道は、絵画教室に通ってもいっこうに上手くならず、それどころか後から入門した人たちに次々と追い越され、かえって「どうしてこんなにも上手くならないのだろうか」と我ながら興味深くなって、かれこれ十五年ほど通い続けているという。出来不出来などという些細なことにこだわらず、そういう哲学的な(かつケッタイな)腰の据え方をしてこそ、趣味を持つ甲斐といえるんじゃなかろーか。

さて、それはそれとして。油絵では、絵の具で描いといてボロ布でキャンバスを拭き取ることがままある。そんなところもまた、ぐしぐしと指や手を使って描く幼稚園児のような私には、たいへん合っているのだが、何にせよ粗忽な性格なもので、「ボロ布……タオルでいいかぁ」と使っていたら、次の週には画面のあちこちに謎のカタマリが。
「うーん、目の粗いキャンバスだなぁ」とか思いつつよくよく見ると、二つ切りにしたタオルの断面からハラハラと散った糸くずが画面の油絵の具にめり込んで、あちこちで予期せぬコブが生じていた……。
ルネサンス絵画の技法を習ってるはずが、現代美術。 _| ̄|○

ちなみに先生と話すに。
「ボロ布の材質は、そうですね、シーツとかいいですね。あと、オヤジの肌着とかね」
「オヤジの……肌着ですか?」
「そう、オヤジのじゃないと。できれば、首のあたりなんかが伸びきっちゃったヤツですねぇ」
油絵にあらまほしき道具は、最高級のコリンスキーの筆とかじゃなく、おやじ肌着のボロ布か。うーむ。

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わかったような?

横浜そごうで「プラハ国立美術館展-ルーベンスとブリューゲルの時代」をやっていたので、見にいった。
去年Bunkamuraでやっていて見損ねた展覧会で、「まぁ見なくてもいいかな……」などと思っていたが、これがかなりのアタリだった。個人的にはフェルメール展よりよっぽど良かった。
ブリューゲルの細密でユーモラスな書き込み(海の緑色が好き♪)や、エラスムス・クエリヌス(子)なる人のスーパーリアルな果実描写もさることながら、ルーベンスの色彩の輝きといったら、もう。ルーベンスといえばあの肉肉した肉食人種の肉体描写がキライという向きも多いと思うが、1600年代初頭に描かれながら亀裂ひとつなくテラテラと輝く画面のみごとさは「すげぇ!」のひとこと。それに、版画の下絵の油彩デッサンは単色ながら強烈に素晴らしかった。
夜は、スペシャルにたのしみな時間となりつつあるお絵かき教室。
お絵かき教室は最近やけに若者が増えて、今日なんか席がいっぱい……まぁ、満員でも十人なんだが(お絵描き教室自体は、一日3コマ×週六日やってる)。またもやぺたぺたと塗りたくって、幸せにひたる。展覧会の帰りに買い足した筆がしなやかで、実に気持ちよくぺたぺたできた。
先生との雑談で展覧会の話をしてて、「画家といえば不幸&性格破綻&貧乏&夭折」というステレオタイプは、二十世紀以降の神話だよねー、と合意。何でもドラマティックなほうがサマにはなるけど、ドラマティックなだけでホンモノだと見なすのは、なんか違うだろう。

そいでもって。
つい先日、創作というものについて十代の頃から考えていたことに、自分なりの回答を出したので書き付けておく。
考えていたことというのは、まぁ、十代なら誰でもが思う悩みだ。「素晴らしいアートを見るとムチャクチャ感動すると同時に、自分にはこんな作品はとうてい生み出せないという事実に打ちのめされる。才能がない人間が創作をすることに、なんか意味なんてあるんだろうか?」
んで、ふと先日、自分のなかから答えが出た。
「素晴らしいアートは、日常性の外に意識を連れ出してくれる。つまり人の意識の針を、毎日の生活のせこいストップウォッチではなく、自分として存在し始めてから消えるまでの “絶対時間” に時計合わせしてくれる。そういう鳥瞰的な意識をセンスとして備えていて、何らかの形で表現できる人間が、アーティストなんだろう。けれど、そんな意識の高みに登れない凡人こそ、高みへと登っていくための“杖として”、創作し続けていくことが大切なんだ」と。

うーん、若かりし自分の不服げな顔が目に浮かぶようだ。けど、今はそう思ってる。

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フェルメール展……行ってはきたものの

いまは労働のせいで早起きモードなので、フェルメール展に行こうと金曜の夜から心に決めていた。でも公式サイトの混雑情報を見ると、遅めの時間のほうが空いてるみたいだったので、早起きはしたけど、のんびりと午後から行ってみた。
混んでたよ  orz

国立新美術館が「ばかけんちく」じゃないかという話を聞いていたので(夏は中は蒸し風呂だとか)、その見物ついでで行ったのだが、美術館のガラス外壁が棚みたいな形に組んであるのは何なんだろうか。掃除がしにくくないか?
連れに至っては、「なんならミッフィーちゃんのぬいぐるみを並べとけばいいのに」と言っていた……(フェルメール展のグッズ売場でディック・ブルーナ関連ものが置いてあったのだ、いくらオランダつながりと言われてもなぁ)。それを聞いて、「わははは、射的のよーに撃ち落としたら、さぞ楽しかろ!!」と応じてしまった私も何だとは思うが。

絵については書かないよ。フェルメールを一点貸す以上(保険は高いだろうなぁ)、あとは予算的に「端物がたくさん」にならざるを得ないんではなかろうか。
アムステルダム国立美術館は、私と連れが唯一入ったことのある海外の美術館。その時は、ふだん絵に興味ないという連れが感嘆しまくってたっけ。思うに「有名なもの」はともかく、「無名だけどいいもの」は貸出対象にはならないんじゃないかな(借りる方だって客寄せにならないし)。何せフランドル画派からの脈々たる流れ、17世紀オランダ絵画はもっと素晴らしいはずと思うよ。

ほんとは六本木ミッドタウンとか六本木ヒルズとか、名前は聞いてるが未だに足を踏み入れたことのない「田舎者ホイホイ」に捕獲されてみたかったんだけど、連れがむずかりそうだったので、そのまま日比谷線でアキバへ。
しかしアキバはものすごい再開発の真っ最中。あちこちのビルが歯抜けになっていて、景観の違いにまごつくばかり。店が入れ替わるのは慣れてても建物ごと無くなると、なんとも言い難いさびしさ感が。
「’70年代の遺産が完全に消費しつくされたってことじゃないかねー」などと連れは言い、私は私で「意外にショボくて下世話で面白いリアル都会」ではなく、ニホン各地を席捲中の「よそ者が寄ってたかってアタマの中で造り上げた都会」に改造された駅前をショボショボと眺めていた。
「住民票ひとつ置いてねー奴が好き放題に街を決めてんじゃねーよ」ってセリフを、イナカ者的な感性と言うなら言え。都会が「よそ者を排除しない場所」だったのは、「帰れる場所がない人々の場所」という前提があるからだ。
こーゆー再開発をかます会社のエライ人なぞは、緑ゆたかで閑静な住宅街で「スローライフ」を楽しみながら、たわけたガラスと鉄の巨大な函を「アーバンライフ」と詐して、たまたま賑わった町の住民に押しつけるわけかねぇ。いや、エライ人も実は米寿過ぎてもウルトラモダーンな建築に住んでるとかいうなら、それはそれで認めるけどさ。

なんかムチャクチャに脱線したが、まぁ、たまには外出して気分転換もいいねーってことで。
次はムンク展をたのしみにしよう。やっぱ国立西洋美術館のほうが好きだなぁ。

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なんてお得なシュミ

お絵かき教室では、じっくりとまだ水彩……しかも「白黒なしの三原色だ、どんと来やがれ!(ヤケっぱち)」のまま、夏頃からは模写に入っている。これがなかなかムズカシイのだが、たのしい。
最初にやったのは、モネの「かささぎ」なる雪景色。白は塗れないので(紙色を残すことで白にする)、死ぬかと思った。
んで、二枚目の模写候補を物色していて(お絵かき教室には、過去の展覧会の複製ポスターや大型画集が大量にある)、ふと目に留まったのが、世にも愛らしく、そして俗世離れした聡明さを放つ少女像だった。
あまりにもかわいらしいので、何時間も見てても大丈夫そうだし、おそらくはバロック頃の絵だからパキッとして描きやすいし、赤系統が主調だから減りが早いウルトラマリンブルーの節約にもなる、などとセコいことを考えあわせてその絵を選んだ。
タイトルを知って少女の雰囲気にも納得したが、その素晴らしい雰囲気がうまく描けず、紙に穴が空くんではないかと危惧しながら何度も何度も描き直した。

むかしは、模写ってーと、アカデミックな絵の修練でやらされるイヤげなものかとイメージしてたのだが、やってみたら実にいい!! 濃厚にすぎる絵画鑑賞だということがわかった。これで元絵を前にしてねっちりと描けたら、どんなに幸せだろうかと、心から思う。

その絵は先々週には完成したのだが、今日、スケッチブックから外して持って帰り、(仕舞う所がないので壁にかけっぱなしの)展覧会の時の額縁の絵に入れかえてみた。すると、照明の傘の上になるし、遠目だし、おまけに自分は近視&乱視なので、なんか素晴らしく見える!!
てなことで元絵をリンク(複製ポスターではさらに素晴らしい絵でした、念のため)。
スルバラン 「聖母マリアの少女時代」
模写したものはちょっと違われ感がありすぎなので(汗)、掲載は遠慮しときます。

お気に入りの世界の名画(もどき)で部屋を飾るというのは、実にたのしいということを知った。
名画の模写は、絵が好きな全人類に勧めたい(うわ)。

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戦争とアニメーションと鳥たち

前にDVDで見たフランスのアニメーション「王の鳥」を、ジブリの高畑勲が旧版「やぶにらみの王様」と徹底比較のうえ論じている「漫画映画の志」を読んだ。「王の鳥」自体は実に美しく、しかも考えさせられるアニメだったので、順番待ちだったけど、図書館で取り寄せて読んだのだ。
で、いっぽう。三十年ぶりくらいに、かなーり気に入ったTVアニメに遭遇。日曜朝8時半からテレ東で放映中の「天元突破グレンラガン」(笑)。気に入ったといっても、毎週決まってTVを見るなんて大嫌いだし、録画の習慣もないので、某ニコ動でチェック。じっくり高画質で見る価値がある作品と思ったので、DVDも買っちゃうぞ~!(うわー!)。

「王の鳥」は、権力の圧政や革命の顛末やらを、さらっとアイロニカルに、そして幻想的な色彩と空間感覚で描いたアニメーション。元作品が1950年代というに、まだ大戦の傷跡生々しく、アルジェリア戦争とかも勃発した頃ではなかろーか。で、この作品は詩人のプレヴェールが脚本を書いている。反権力・反権威な人なので、60年代にはそういうところが評価されて読まれ、それゆえ今は読まれなくなったのかな。だが、サヨク的バイアス抜きに「庶民の小唄」として再評価してほしいもんだ。俗な奴といわれても、実は結構プレヴェールが好きなので(笑)。

こういう、いかにも知的で気の利いた美しいアニメーションなどを見ると、「うーん、権力は恐ろしいもんだし、民衆は無責任なもんだよねぇ、くわばらくわばら」などと、自分だけはそういう陥穽にハマらずに済む知的で冷静な第三者かのように思えてきてしまうもんだ。だが、まったくそんなことはない。
美しいもの・魅力的なものは凄まじい力をもっている。美人女優に商品をPRさせるCMはひきも切らない。ナチスドイツの制服はサンローランだかディオールだかがデザインしたらしい。ナチスの思想とは別に、そのデザインに惹きつけられる人は今なお絶えない。付け焼き刃の教えなぞ、そういう力の前にはどこかに消え失せてしまう。

日本のマンガやアニメは世界中で人気だそうだが……、では例えば、防衛省のイメージアップに、ぶっちゃけ、戦争のプロパガンダに駆り出されたら、日本のマンガ家たちやアニメーターたちは粛々と応えるのだろうか? 「王と鳥」の反骨精神に満ちたクリエイターたちの話を読んで、ついつい考えてしまった。
大友だの押井だの、さぞや未来的な自衛隊のイメージボードをデザインしてくれそうだが。鳥山明のエンブレムペイント戦闘機が発進とかね。……いや、笑い事じゃなくてね。

なお海外では、日本のアニメはやたら暴力とエロが多いと評判らしい。だが日本は二次大戦以降戦争とは無縁で性犯罪も少ない国だという事実。そして実際の戦争のリアリズムとは無縁の宇宙戦争が、TVアニメの中でひたすら消費され、子供や青少年の空想のなかで、「戦争」はシミュレートされてきた。言い替えれば、日本のこどもは戦争イメージをアニメで学んできた。……実際には、いま世界には両者対等の「戦争」なんてなく、ほとんど「虐殺」と「殲滅」があるばかりなのに。
私おもうに、日本のSF戦争アニメは、現実の「戦争」とは似て非なる「なにか」を描きつづけてきていたのではないか? 「侍」が「人殺し」とイコールではないように。
そこを自分たちで把握しとかないと、一方的に「エロと暴力」のレッテルを引き受けさせられかねない気がする。そして、「戦争イメージ」が「戦争プロパガンダ」に使われて是とされるかもしれない。

で、もっか気に入っている「グレンラガン」は、少年主人公の成長を描く、正統派ロボットアニメ指向の新作。全26話(+総集編1回)を4部構成にして、おのおの70年代、80年代、90年代、00年代のロボットアニメのカラーを踏襲するというコンセプトに惹かれて見てみたのだが、ケレン味いっぱいの画が見て楽しく、話の展開がサクサクと早く、絵柄もシンプルなので、昨今のアニメキャラには目がチカチカする年配者にも実に取っつきやすい。

せっかく世界で唯一、「数十年にわたるロボットアニメの歴史」をもつ日本だ。この作品には、戦いのイメージや主人公イメージの変遷などを総覧しながら、日本のTVアニメで夢想されてきた「戦いと成長のイメージ」のこの次を示してほしいなー、と期待してたりする。地味な少年TVアニメのように見えつつ、かなり野心的な作品と思うので、数年経ってから再評価されるんではないか。

てか、ものをつくる人は野心的であってほしいもんだ。
そうして、ものづくりに野心的であると、周囲とぶつかったり、お上とぶつかったりすることもある。ジャック・プレヴェールもおそらく、反権力がどうこうというより、「人生のよろこびの時間をゴタゴタ邪魔する奴ぁ大嫌い」 ということだったんではないか。
「王と鳥」で、愛し合うこどもたちが煙突の上ではじめてこの世界を見るシーンはすばらしく美しかった(宮崎駿も絶賛)。「グレンラガン」でも空中高くの360度の視界を、仲間と、恋人と、満喫するシーンがあった。ともに、鳥のように大地を遠く離れて、世界を見渡す感覚が、問答無用に素晴らしかった。
“足かせは世界を美しくしない” そんなことを想わせるほどに。

今日は終戦記念日。これからも日本が平和でありますよーに。美しいものや善いものが都合良く濫用される時代が来ませんよーに。

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上手いとズギューンの差 - 安彦良和原画展

つーことで川崎市民ミュージアムで開催してる安彦良和の原画展に行ってまいりました。いや、用あってみなとみらい線に乗った帰りに、「……暑いから横浜乗り越して、そのまま行ってみるか」と思いまして。
川崎市民ミュージアムは漫画をちゃんと扱う希有なとこ(良い学芸員さんがいるらしい)。私的には、アニメやマンガを人寄せパンダにする、都の現代美術館とか文化庁関連なんかより好感もてます。上村一夫の展覧会もやってくれたっけ、ありがとう(行かずじまいだったんだが……)。

てなことで、実はココは初訪問。では、私が安彦良和の熱烈なファンかというとそんなことはない。だが、私にとってはびみょーに思い出深い人である。
はるか大昔、いわゆるファーストガンダムが世に出た頃、当時の友人が大ハマりして、いかにも厨房らしく、熱心に布教をかけてきた。その中で、「ほら、脚の曲線が棒みたいにストンと落ちるんじゃなくて、反ったカーブになってるでしょ、実際に見るとそうじゃん? リアルなんだよねー」と言い、それにはとても感銘を受けた。確かにそれまで、そういうラインの描き方は見たことがなかった。つか、“いつも見えているものなのにそのような見方をしていなかった” ことに気づかされた。
ということで、安彦良和は、自分の 『人体画好き』 の契機になった存在かもしれない。

とはいえ、やはり安彦絵は好きにも嫌いにもなれなかった。大ファンな人もいると思うので感性の問題とは思うけど、私にとっては「上手いなぁ」と感心はできても、燃えも萌えも感じない。つまり “ズギューン!” がないのだ。こーゆーのって微妙である。原画展なので、実際の色遣いからペンタッチまでがまじまじと見られて、いろいろな理解が深まった気はするが、「堪能したー!」というより「勉強になりました」という感じ。
……もしかしたらこのヒトは、職業で描くイラストレーションよりも、純粋にシュミで描く画のほうが素晴らしいかもしれない。そんなんを描いてるかどうかは知らないが、「キャラ」ではなく「絵」を見にいった人間にとってはそのほうが感動できたかも。

蛇足で言えば。熱心に連日の布教をかけられて、いちおうガンダムの筋も登場人物も一通り理解はしたが、やっぱり好きにも嫌いにもならなかった。
てか、再放送されてた(当時でさえOUT OF DATEな)ロボットアニメの「コンバトラーV」のほうが、その熱血バカさとクサさと主題歌の底抜けさと関西弁キャラ登場ゆえに、ネタとしても燃えとしてもよほど好きだった。根が脳天気にすぎる私。ちなみにこちらもキャラデザインは安彦良和なんだが(笑)。

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大変たのしみなSFワールドコン

てなことで、SFの世界大会、Nippon2007ワールドコンが、8月30日~9月3日まで横浜にて開催される。
読んだSF小説は旧いスペースオペラやサイバーパンク辺りの数作のみという私にとって、微妙に縁があるようなないようなイベントではあるが、それでも大変に意義深い開催だというくらいは理解できる。SFというのも色々と幅広いようで、いまや空想科学小説どころか、時間と空間からジェンダーまで、ありとあらゆる先鋭的な問題意識の流れ込む先みたいになってたりする。そーゆー不可思議なジャンルで自主独立のファンイベントが毎年世界のどこかで開催されつづけていて、しかもそれがアジア初の開催として地元にやってくるというのは、たいそう嬉しく誇らしいかぎり。
アートショーやグッズ展示が行われる展示ホールAは入場無料だし、当日券限定ながら横浜市民割引も実施される(口頭での証明で済むようで……)。どの日に出かけるかは日本SF作家クラブにあるタイムテーブルを参考にしようかと。まぁ、眼福のために最低限でも展示ホールには出かけてみたい。みなさんも、でひご覧あれ。てか、アートショーだけでも結構たのしみだなぁ。

てなことで、精神の夏涸れ防止のため、エサやり続行中&画策中。回復基調だけど、ぱかっと出力アップするには、毎日が暑すぎて……。

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森村泰昌展 「美の教室-静聴せよ」-はにかみと決然

昨日は旧き強敵(とも)と横浜美術館へ。森村泰昌の展覧会 「美の教室-静聴せよ」をやっている。9月17日まで。
本人の公式ページからギャラリーを見てもらえればわかるが、この人は名画の中の人物に扮して「名画」になってみたり、往年の大女優に扮してみたりと、コスプレ的な要素で耳目を惹いている。だが私的には、たいそうマジメなはにかみ屋のように思えてならない人だ。

小学校の机や椅子を並べたりした、教室仕立ての展覧会は、それ自体が夏休みの自由研究って感じだし、また子供らがわらわらと見て回っているのをみても、よくハマっている。大量のお子らの群れは、講義を吹き込んだ無料ガイドともども、鑑賞する分にはウザいが、意図としてはOK,了解するよってな感じ。
ハデで濃密でキレイなんだかキモイんだかな名画コスプレは、やっぱし目立つし面白いし、子供らもウケていたんだが、しかし「東洋の島国のヒトが西洋美術をまねぶことだって、やはり一種のコスプレなんでないの?」という、明治以来の問題意識を巧みにつついてくるのも事実。名画コスプレの中に何気に招き猫や獅子舞が登場するあたりも、土地の血っつーか関西人的なサービス感覚があって、また楽し。

最後の三島コスプレによる上映を見て、展覧会タイトルに「あっ、そうか」と得心したのだが、子供らには元ネタがわからないかもしれない(会場には元ネタ演説の英語版パンフしかなかった)。これから行く人は元ネタにざっと目を通しておくよろし→三島由紀夫演説文
あ、このエントリの文脈だと民族主義的に誤読される可能性があるかもしらんが、森村はそーゆーことを言いたいわけではないと思う。なのであえてパロ演説の内容は引用しない。実際に見てほしい。ちょっと胸をつかれましたよ、ホントに。

画面中の眼下にひろがる昼間の公園で人は我関せずと行き交い、展覧会場で子供らはおかしいと笑う。
でも、アーティストはお追従笑いはせず、かといって肩怒らせて悲憤慷慨はせず。
ネタとマジ、本物とパロ、西洋とニッポン、女と女装男、怒りと笑い、キレイとキモイ、なんだか可笑しくてなんだか切ない、そーゆーはざまでアーティストは自分に誠実に生きてる。
もし自分が人の親だったら我が子に見せるべきか否かビミョーな、つまり良い展覧会でした。

あ、美術館には遠くて行けないという人は、ぜひこちらを。
『「美しい」ってなんだろう?-美術のススメ』 →サンケイの書評
むずかしくなく、かといって迎合もせず、読んでおもしろく、エッセンスがいっぱい詰まってます。どんなレベルであれ “表したい・現したいなー” という人は一読すべきかと。
この「よりみちパン!セ」シリーズ、 “一生懸命なオトナが思春期な人々に伝える等身大に誠実な本” というのは、もう思春期でない人間にとっても非常に有益なものです。全力で品質に留意しつつ、ずっと続刊してほしいもんです。

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国立ロシア美術館展に行ってきた-写真ではわからない

睡眠サイクルを昼型にすべく30時間起きていても、14時間寝てしまってチャラにしてしまう自分にトホホ。

とはいえ、ヤフオクでチケット入手しといたので、東京都美術館で「国立ロシア美術館展」へ。だって会期が今週いっぱいなんだもん(7/8まで)。
「すっげー良かったー!!」というほどじゃないけど、あまり知られていないロシア近代絵画(てか、私も知らないんですが)の紹介という意味でも、価値があると思います。また、リアリズム絵画が中心なので、「なんだかワケのわからない現代芸術ってキライ」という人にも安心してオススメ。「うわー、上手だね~」「ほんとだね~」ってだけでも会話が成立する辺りも古典絵画の魅力のひとつかも。
ただ、いつもいつも残念なのは、肉眼で見た絵と、何らかの媒体を通した絵は、やんなるほど違うこと。日本の美術館のクソしょぼい照明も不愉快だ(作品保護で照明を落とす必要のないものまでも薄暗くするな!)。画集でしか見ていない絵の数々を考えると、もう何というか、絶望的な気分になる。
ちなみに、どっかのおっさんが展示作品をカメラで撮っていたのだが、隣に居た人が「あれっていいの?」 「うん、海外の美術館ではほとんどOKだけどさ、写真撮ってるのって日本人ぐらいだよ(笑)」と話していた。私もつい笑ってしまった。写真を撮るのは、記憶のよすがにするため、くらいに好意的に解釈しておこう。写真で見る前提で描く画家は、(現代芸術ならともかく)そうそう居ないだろ。最初から写真家ってジャンルがあるわけだし、印刷前提ならイラストレーターがいるわけだし。
つか、頼む、目の前に在るものを、その目で見てくれ。
てなことを言いつつも。さいわいなことに、ここの公式サイトには全作品が掲載されています(笑)。
複製は不完全だとしても、複製なりの価値と意義がある。それは認めたい。極東の島国に居ながらにして世界中の芸術に触れるには一番てっとりばやい。ただ、イコールであってもそのものではないことは忘れないようにしないとね(自戒)。
レーピンの「ニコライ2世の肖像」とか、シーシキンの「冬」とか(写真みたいに見えるけど実物は絵画的魅力いっぱい)、リアルでありつつも詩情あふれてて良かったなぁ。個人的なシュミとしては、どこかクリムトの「パラス・アテナ」を思わせるマリャーヴィンの「ヴェールカの肖像」も好き(実物はもっとパワーあるよ)。クストージエフの「マースレニッツァ(ロシアの謝肉祭)」も楽しくて好き(緑色の空!)。
今後も各地を巡回するらしいので、お近くに来たら、でひ。

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「ペルジーノ展」と「ヘンリー・ダーガー展」-個体発生は系統発生を繰り返す?

今日は実姉とひさびさに会って、たのしく美術展をハシゴ。

まず最初は、損保ジャパン東郷青児美術館……ある程度の世代には「バブル期に騒がれたゴッホのひまわりが置いてある美術館」……でのペルジーノ展。なんでもラファエロの師匠だとかという話。
興味深かったのはペルジーノの作品それ自体よりもむしろ、その前世代の作家たちの作品も並べている点。人体比率なぞムチャクチャな時代、だんだんとリアルになってく時代(レンズが導入された?)、線遠近法が使われてく時代、油彩が取り入れられた時代、空気遠近法がフツーに使われる時代、と、時代の変遷を感じられる。何か美術史をたどるというより、フツーの絵描きさんがたどる、厨房な主観絵、高校生になってやや万人向け、大学に入ってアカデミックに勉強……といった変遷をなぞるようで、なかなか楽しかった。
この時代の絵は工房で大量制作してたので、使い回しや弟子による作画はアタリマエ。「これはアシさんが描いたんだろうねー」とか、「建築物が入った難しい絵だけは先生じゃないと描けなかったんだねぇ」とか、まるで池上遼一だかさいとうたかおプロの作品だか見るような楽しみ方をしてきた。しかし、ジュニア向けの展示解説本で、「使い回す」「弟子に描かす」とかいった、ペルジーノの ”成功のひみつ” なぞ説明せずともいい気も……。コピペ厨乙、ではないか。また、宗教画に見られる顔の回りに羽根だけついたタイプの天使像をペルジーノも描いているのだけど、なかには羽根というよりラフレシアの花弁のよーでキモいものがあった。これは7/1まで。

そこから品川に移動して、原美術館のヘンリー・ダーガー展。某PATIOの皆さんと共に世田谷美術館で見た、かの「パラレル・ヴィジョン展」が懐かしい。野外の休憩所で東京ビートルズを鳴らして皆さんのヒンシュクを買ったのも懐かしい。ワタリウムにも行ったので、ダーガー展は都合三回目になるのだが、記憶の中よりも絵が小さく見えて、記憶のあやふやさにびっくり。
今回は、その孤独きわまる人生や残虐でグロイ側面ばかりを取り上げられがちなダーガー作品の、「楽園」部分に重点を置いた展覧会。最初期のコラージュ作品から、コラージュ&トレース、そしてトレース使い回し&独創、といった変遷が見える展示にしてあり、ここでも、個体発生が系統発生を繰り返しているよーな様子が面白い。またダーガーが暮らしていた室内の写真が多数展示してあるのも興味深い。さすが原美術館だなと思ったりして。
さらに。今回の収穫だったのは、(たぶん晩年の作だと思うのだけど) 背景や物体にハッキリと明暗をつけた絵を発見したこと。リアリズムの萌芽! ちょっとホンモノっぽく見えるようになった絵を前に、ダーガーはきっと、うれしかったのではないだろうか。
自分が構築した壮大な物語を 「ビジュアル化したい!」 と思い、でも絵なんてやったことがないから、丹念に素材を集めてコラージュし、それでも何か違われでトレースを始め、やがてトレースをがんがんと組み合わせ、反転させ、塗り分け、どんどん 「自分だけの世界」 を築いていく。巧い下手とかの囚われを超え、全霊の熱意にひきずられ、表現の楽園をたどたどしく、だが生々しい嬉しさに満ちて、歩いていく、そんなナマのよろこびが胸に来ました。
いつどんなふうに歩いてもいい道が誰にも拓けていること、それ自体が恩寵ってもんじゃないだろうか。
そしてまた。ダーガーの楽園風景の色遣いを見て、「独特だよなぁ……」と思ううちに、はたと気づいた。
「これは、幼い頃に見た“りぼん”(少女漫画雑誌)的な色遣いだよ!」
ダーガーにカラーインクを差し入れたかった……私ゃ使ったことないけど。新しい画材って楽しいから、悦んでもらえたと思うぞ。
こちらは7/16まで。人気がある作家だけに、平日でもそれなりに混んでます。行くつもりがあるなら早めがオススメ。ちなみに品川駅から美術館近くの「御殿山ガーデン」まで無料送迎バスが出ているので利用すると良いかと。原美術館の屋上からの心やすらぐ眺めを毀した代償として、そのくらい使ってやらんとな。

美術展ハシゴのその後は川崎に移動して、スパイシーで美味しい手羽先をたらふくご馳走になり、ゆっくり楽しく歓談し、心にふとん乾燥機をかけたような幸せな気持ちになりました。多謝。

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「アートで候 会田誠&山口晃」展と「アンドリュー・ワイエス」展

今日は、目下自由人の旧き強敵(とも)と連れだって展覧会を見にいった。
ヤフオクでしこたま展覧会のチケットを仕込んだのだが、先週でかけようとしたら豪雨。んで、都合がつくのは今日……つまり大抵の美術館がお休みの月曜日のみ。で、回れる展覧会は2ヶ所だけとなった。 まず最初は 「アートで候 会田誠&山口晃」展。さすが現代美術の売れっ子だけあって客層が若い……が、上野の森美術館がサンケイ系列&平日午前中だけあって、「お芸術を見に来ました」系のおばはんもちらほら。そーゆーのに限って展覧会場でぺちゃくちゃぺちゃくちゃと五月蠅い。だが、会田誠の作品展示でエンドレスに鳴り響くラジカセの 「♪I should be so lucky~」 の前に影が薄い気も。彼女らは壁面をどーんと飾るスク水美少女乱舞絵をどのように見たものであらふか。
山口晃の絵の細かさには感心。みんなちまちまちまちまと描いてあって、それをいちいち確認するのが楽しい。ので、観客は絵の前からなかなか動かない。頭目天を見て「ゴマキに似てない?」という強敵(とも)の指摘にもちょっぴり感心。会田誠も山口晃も “萌える美形” を描けるのが、ウケてる理由のひとつではないのだらふか。技術的にも相当に巧いしな~。

てなことで、ポップな今様感覚あふれる展覧会を楽しみ、次の展覧会に向かう前に、おひるごはん。
ここですぐに目についた焼肉屋に入り、いろいろ悩んだ末に「豆乳冷麺」をチョイスしたのだが……。この十年来の衝撃とも言えるほどマズイ。強敵(とも)には 「どうしていつもそう危ういネタ的な道を選ぶんだい?」と言われてしまう始末。いや、ネタじゃなかったんだ、ネタじゃ。
『マズくても体にはいいはずだ!!』 とか己の心に言い聞かせながら食べたのだが、これで中国産危険農薬どっぷり大豆豆乳だったらどうしよう、などと要らぬことまで心をよぎってしまった。踏んだり蹴ったりじゃん。

で、次は青山に移動し、青山ユニマット美術館へ。ここはシャガールをメインに、レオナール・フジタ、ピカソ、モディリアニ、ユトリロ、ドンゲン、スーティンなどなどエコール・ド・パリの画家たちをコレクションしているよーで。キスリングがちょっと気に入ったり、マルケが巧いなぁと感心したり(この人もモローに学んだんですね、知らなかった)。
しかし、まぁ、目当てはアンドリュー・ワイエスの企画展。この絵が有名ですが、アメリカン・リアリズムの画家・イラストレーターってことで。
こーやって見ると、「すげーリアル!」と感心するけれども、実際にはサクサクと何気ない調子で描いてある。テンペラ画法の絵もあったけど、水彩画なんかは塗りムラも多々あったりして。なのに……二、三歩離れて目を細めると、あら不思議、やっぱり「すげーリアル!」。
まぁ、とどのつまり、光と影、色の調子の捉え方が絶妙に的確なのであらふ。てか、「水彩ってうまく描けないよー、だめじゃん~」という、日頃の自分の言い逃れがいかに言い逃れでしかないかを眼前に突きつけられてしまって、ただひたすら謝罪な気分。

ちなみに青山では駅出口から美術館までわずか50mかそこらの間にオサレなカフェが何軒も立ち並び、「やっぱり都会だー!!」と感心しました。さらに入ったおにぎり&甘味屋は安くて美味しくて内装もきれいで椅子もゆったり。「やっぱり都会だー!」

とまぁ、今回は古典絵画ではない絵をいろいろと見てきたわけですが。「絵って結局、好きなよーに描けばいいんだなー」と、絵の自由さを再確認した気がします。絵を見るのってたのしいもんですな。

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詩の朗読会みてきたよ

夕方から阿佐ヶ谷までおでかけ。11年前、つまり大昔に第1回(というより第0回)を見たきりの「T-THEATER」が、今回が最後の公演になるとのことで出かけてみた。
大昔からのネト友の皆様はご存じだろが、私は今は亡きニフティのフォーラム、その詩のフォーラムに参加していた。誰だ、イメージ違われというヤツは。
私のよーな小唄レベルとは異なり、フォーラムでは現代詩にきちんと取り組む人が多く、中でもお近づきさせていただいていた中核な皆さん(中核派ではない)が詩の朗読公演をやっていたのだ。2年に一回のペースで開催されていたのだが、地元に出戻って無精になってからは一度も足を運んでおらなんだ。
第0回の時は「あれじゃ料金高けぇよ」とかムチャクチャ無礼な暴言を吐いたものだったが、今回、ラスト公演となる第5回はちょっと現代演劇風な演出も入って、なかなか楽しめるものであった。料金半分、クォリティ倍増。
さて肝心の公演。
小さなシアターの席に陣取り、開演を待ちつつ、配られた小冊子(朗読される詩ね)を読みふける。
開演してまもなく、席のすぐ後ろで、靴音高く不作法に座る気配。「……るせぇよ」と呟きそうになったが、どうやら演出で客席からも朗読するものだったよーで、不作法な感じもキャラ演出の一環だったらしい。危ない危ない>自分
肝心の詩のほうだが、これが結構おもしろかった。やはり眼で読むのと耳で聞くのは大きな違いがある。音になると詩はまるで違う。眼で読んだ時には面白く感じた詩がいまいちに思えたり、眼で読んだ時にはどうよみたいな詩が結構おもしろかったり。
また、少なからぬ作品が、作者とは違う人が朗読してたのだが、「ふむ、こういうふうに解釈したのか?」 と自分の解釈と引き比べるのも楽しいし、作者本人の朗読でも 「おお、こうだったのか?」 と得心してみたり。こうなるとクラシックの作曲家と指揮者のような楽しみ方だ。
舞台自体は、二部構成になってて、舞台装置を替え、衣装を替え、さらに演劇的な演出が多々あって、タイクツしないで見ることができた。いや、寝不足だったんで、長い詩だとたまに意識が飛んでたけど。あと逆光やスモークや大きな音はしんどいんで割と目を閉じて過ごしてましたが、楽しんでました。

しかし、ああいう肉体遣いのパフォーマンスは大変だ。誰が朗読し慣れているのか、声の出方ですぐわかってしまう。腹に重心が来る人、胸で話す人、喉の開き方や共鳴のさせかた、あるいは微妙なイントネーションの狂い、耳で解釈するしかない分だけ、どうしても意識はそっちを見てしまう。「言葉」というより「音」に近くなるだけ、たとえば「漢字ではこう書くんだな」的な脳内変換と解釈はすっとび、いってみりゃ呪文、はっきりいえば歌に近くなる。かつてのビートニク詩人のポエトリーリーディングあたり、現代のラップにつながってるんでないかと思うが、逆にいえば 「どうしてあえて 『詩の朗読』 になるんじゃろ?」 的な疑問は湧いてきてしまう。
紙に書かれた言葉と、口に出す言葉そのままは、結構違うのだし(たとえばインタビューをそのまんま一言一句まで起こしたら大抵は意味が通じにくい内容になってると思う)、つーか、そもそもラップなんかでは、文盲の人々のあいだで生まれてくる・文盲の人々にも通じる『口承のことば』という部分は無視できないんではないだろか。ニホンジンの英語学習みたいに 「読み書きから入る詩」ではなく、「語呂合わせや音の快感から来る詩」なわけで。
(あ、別にラップだけが詩の出口だとは思ってません。初期のP.I.L.とかあるいはグレゴリオ聖歌とか、あーゆー「お経みたいな歌」もありなんではないかと。ただどういう技術を使うか(どういう意識へ持っていくか)の違いはあると思うけど)
そーゆー意味では、昔にくらべて詩の朗読が流行るにつれ、定型詩の技術ってますます無視できなくなってくかと。やっぱ、ニホンゴって言文不一致やね、どうしても。てか、明治以降は大変なんかな。梁塵秘抄とか「流行歌」なんだが、今じゃ詩として読まれてるもんなぁ。ううむ。

などとつらつらと考えさせられました。やっぱり詩って考えれば考えるほど、ムズカシイもんですな。
何より、10年以上が経って 「良かったなー」と思える舞台と、ちゃんと積み重ねてきた人たちを見て、この10年なにひとつロクな進歩のなかった自分に気絶しそうになったのが一番イタかったなぁ。

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人体でっさん

昨日は人体デッサンの日だった。
今年は土日の人体デッサン日がこの日しかなかったので、勇躍参加。んでもって初の男性モデル描き。
近所というのにやや遅れて着いたら、席の空きが限られている。モデルさんの真正面。深く考えずに腰を下ろし、開始を待つ。さて、開始。
人様の局部をど真正面に見るのは、なんか困惑するものですな。
台の上に立たれると、ちょーど目の高さなんだが。構造上、隠せとも言えないし。
だが、えんぴつを持ったらそんなことは言ってられない。午前はクロッキー、ちゃきちゃきちゃきちゃきと描きすすむ。

モデルさんは……何というのだろう、特徴がない人である。学生さんか少なくとも二十代前半と思うが、すごいハンサムでもひどい不細工でもなく、体もムキムキでもなくガリガリでもなく、全体に清潔感があって、なんだか人体カノンがそのまま現実化したよーな感じである。石膏デッサンをしているよーな気分で淡々と描けた。

午後は2時間半かけてのデッサン。往生しながら描き進む。床に座ったポーズで、また局部が真正面だが、人体なので気にすることもない。ともかく男性のプロポーションの違いや肉付きの違いなどに気をつけながら描きあげる。

だが。
描きあげてみて左右を省みると、右にいる綺麗なおねーさんは少しイーゼルを動かして、側面からの構図で描いていた。左にいるおにーさんの絵では、膝の位置の関係で局部は隠れていた。
私だけですか、ど真っ正面から局部をきちんと描いてるのは。
………。
……。
…。
私は変質者ではありません!!!(必死)

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美の世界行脚-「Ashes and Snow」展

上野を離れ、お台場に向かって、お目当ての「Ashes and Snow」展へ。さかなさんに改めて感謝。

たてもの自体はコンテナを積んで組み合わせたもので、坂茂(ばんしげる)なる建築界で有名なヒトの作品。遠目にも趣きがあるものだったが、内部に入ると 「うわぁ」 という感じに美しい。天井が高い部分で17mとかで、骨組みでつくられた三角形が天井近くにつらなる回廊のような構成。とてもシンプルな大聖堂のようだ。
サイトを見ても驚異的に美しい写真が並ぶのがわかろうが、これらがデジタル修正や合成ではないあたりが実に恐れ入る。
しかし、この作品の真に美しいところは映像だ。バレエのような見事な動きはもちろん、すべてのコマがエロティックで曲線的で、しかも構図が極端に洗練されている。人間の肢体のうつくしさ、動物のうつくしさ、自然の風景のうつくしさ。
なんというか、こういう作品はどうしても「白人が異文化に感じるエキゾティズム」を感じざるをえないのだが、それが極端に美しいので批判のしようがない。カナダ生まれの作者らしいが、フランス的だ。フランス語圏なのかな。姓から考えるにやはりフランス系かもしれない。
フランス人の描くエキゾティズムは極端に美しい。官能的で甘くけだるく、しかも知的で醒めている。あの人々の追憶は世界一美しいのではないかと思うくらいだ。で、また、美に関する感覚が優れているから、自然ドキュメンタリー映画とかはフランスものが多いのではないかと思う。自然の美、人体の美は、数学的でもあるし……。
ここでまたダヴィンチを思う。世界とは何だろう?美しいとは何だ?

ということで、美しいものを堪能して、ショップに行くと……。いや、アートだと当然だと思うけど……高すぎて何ひとつ買えません(笑)。絵ハガキとかそーゆーショボイおみやげ系はなし、ミニ写真集は4200円から。DVD6800円は内容的に考えて適価と思うけど。ゴツイ外人のおっさんが「今日は写真集を買ったら、DVDとミニ写真集をつけます!日曜だけのサービスね!」と叫んでいたが、写真集16800円だしなぁ(笑)。
とはいえ、美的感覚涵養のために自己投資を惜しまない人には良いと思う。また展示作品数は少ないので(60分を超える映像作品はあるんだけど)、ゆったり、ゆったりと時間を過ごせる人におすすめ。

ちなみにこの作品世界を構成するひとつに小説もあって、紙質から手触りから中身まで上等でした。最初の10ページほど読んで、かなり魅惑的と知れたので、欲しくならないように本を閉じて帰りました。ううむ。

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美の世界行脚-ダ・ヴィンチ展とかイタリア・ルネサンス版画展とか

すばらしい天気の日曜日。
同年同月同日生まれのさかなさんのご厚意で、「Ashes and Snow」展を見に行けることになった。歓び勇んで出かけることに。選挙だけ済ませて、その足で連れと別れて電車に乗る。
だが、京浜東北線に揺られる車中、よい天気が私に呼びかけた。
「この美術展は嬉しいことに夜10時まで!やっている……せっかくだから、この際、かねてから考えていた美術館めぐりをしてはいかがなものか」
かくて電車は上野駅のプラットホームにすべりこむ。

特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像」
一番の目玉は「受胎告知」。展覧会の初っぱなにいきなり展示。部屋に入るなりの正直な心境。
「ちっちぇ~!!」
改めて調べてみると、98×217cm。2m超えったって、美術館で見るとたいしたサイズではない。
貸出美術品の通例に漏れず「作品保護のため」って、チョー暗いし。そいでもって、その前に人の列が映画館の如く。
メガネを忘れたので(勢いつけて出たので、デジカメも、チューインガムことiPod Shuffleまで忘れた)、もう少し近くで見ようと近づいたら、トコロ天状態に……いや、流しそうめん状態に流されてしまう。あれあれという間に終了。「こ、これだけモナか!?」 と叫んでしまいたくなる。隣にいた人も「これはないよ……」と呟いていた。
第二会場でもたくさんの人・人・人。なかみはダヴィンチの画業というより、ルネサンスの万能人らしい様々な研究にスポットを当てているもので、非常に興味深いものだが、いかんせんイヤげずきる人だかり。プラトン立体萌え~♪といったタイプの人にはお勧めしたい。

イタリア・ルネサンス版画展
食い足りないので西洋美術館へ。同類が多々いるようで、地味な版画展の割にはけっこう混んでた。デューラーの版画(もともと西洋美術館の所蔵なんだが)くらいしか見るべきものがなかったような……。あ、美貌と没落とで知られたかのパルミジャニーノのエッチングが二点か三点でてました。やっぱ美しかったです。

ただ常設展で、新収蔵版画の展示もやっていて、そちらのほうが見るべきものがありました。ケーテ・コルヴィッツの「耕す人」と「カール・リープクネヒト追悼」。ムンクの「接吻」。ルドンの「キリスト像」。第一回薔薇十次会のポスター。ここらはイイとこ拾ってるなーと思います。版画だと手に入りやすいし、こういうお買い物なら褒めたい。

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♪ Let The Music Be Your Master

今日はゲットー・シスター変じて山の手シスターがパーリー(party)を開催。メリケン流に素敵なもてなしの席に、いつもの如くチー鱈を持参。こちらのパーリーはいつお邪魔してもuniqueな人々がいらして、たいそう心豊かな時間を過ごせることだよ。今回はDJさんが来るというので、中年には理解不可能なトンガった(←死語)人が来るかと思えば、たゆん♪としたあーてぃすとだったので拍子抜けと同時に親しみをおぼえた。

ヨノナカではあーてぃすとというと異様に神経質とか衒学的とか破滅的とか唯我独尊な人々だとかいうイメージがあり、また自分もそんなイメージの前で 「あわわわ」 と怯えてひれふしてしまうほうなのだが、しかしまぁ、冷静に振り返ると、今までに出会った(私認定)モノホン系の人はみな、なんか、拍子抜けするほど、たゆんとしてるところがあった。自然体というか、世間のせせこましさからどっかつるりと抜けてしまってる、というべきか。いわゆるアニマ(アニムス)が元気な人はエロスを備えてるもんだけど(ここでのエロスはsexualっつーより、根源的なレベルの “人を惹きつける不可思議な引力” くらいに解釈してね)、真性あーてぃすとの場合はアニマがちょっと違う次元に通じてるのだろう。

哀しいことに私は、音楽・美術・文学といったゲージツ三大ジャンルの中で、音楽に関しては知識も素養も圧倒的に乏しい。音楽は意識の調律に関して圧倒的な力を発揮する(ように感じる)ので、少しは理解力を持ちたいもんだが。歌謡曲だの演歌だの民謡だのといった粗い意識の部分に関してはついていけるのだが、クラシックだの前衛音楽だのになると相当キビしい。文学でいえばベストセラー新書は読めても象徴詩は読んでるうちに寝てしまう、ってな感じ。音楽と美術は深くなると数学(てか幾何学)センスが必須なので、ちょっと私にはムリぽ感も漂うのだが、自分の “3D感覚”を鍛えるためにも、もう少し何とかしたいもんだ。

で、浅薄にもネットでふむふむと漁っていたら、こんなサイト見つけました。
Ishkur's Guide to Electronic Music
昨今の「くらぶ」なるところの電子音楽(←かなり死語)の流れと分布の粗い部分を辿ることができるようで。ちゃんと代表的な音楽が聞けるのがたのしい。

その場所が大聖堂からくらぶに変わり、洞窟の壁からモニタ上に変わり、パピルスからケータイ画面に変わっても、人が人である限り、art の本質に流れるものはやっぱり変わらないんだろうねぇ。

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ダナエ

昨日お絵描き教室にいったら、先生がデカいキャンバスに向かっていた。
「おお」
描いているものを見て驚いた。レンブラントの「ダナエ」である。
「いまは見られなくなりましたからねー(※バカに硫酸かけられてひどい損傷を受けたんです)。描いておきたいなーと」 「なるほど」
ちなみにこの絵が30年ほど前に日本に来たとき、この絵を使ったポスターが駅貼りされていたが、しばらく経ったら撤去されていたそうだ。
「なんでも”あんな裸の女の絵をデカデカと貼るのはけしからん”とか言ってくる人が多かったらしくて。バカげてますよねぇ」 「端的に言ってそんなヤツは氏ねですね」
たしかにシーン自体はエロっちゃエロなんだが、そういう輩はバックボーンの神話なぞ知りもせずただハダカというだけで非難しているに決まっている。何より、奇跡と歓喜、官能と恍惚、そして荘厳と厳粛に満ちたこの画を見て、どうして単なる劣情絵扱いできるのだか意味不明だ。そんな連中の眼窩に詰まっているのはがんもどきか何かなのだろう。
そもそもダナエ自体が、私の大好きなギリシア神話の英雄ペルセウスのかーちゃん。ちなみにペルセウスは私の大好き神様ヘルメスのごひいきでもある。それにジョン・バースの小説「ペルセウス物語」もムチャクチャに好きだし、島谷ひとみの曲「Perseus」だって全く声が出ないが好きだ……もうこうなってくると何を言っているんだか収拾がつかないが、ともかく好きな気持ちだけ感じ取っていただければありがたい。
だがさらに、『何か最近、別にダナエの名を聞いたような覚えが……』 と釈然としない感じがしていた。うーん。
で、今日になって気づいた。今月の25~28日に横浜港に外国客船「プリンセス・ダナエ」が入港するのだった。
最近はウェディングケーキかマンションかというような巨大客船ばかりなので、すらっとエレガントな佇まいのこうした客船はより一層の気品を感じさせる。ちなみに3/6にはQEIIも入港する。こちらもすらっとタイプ。
美しいカタチが描いてあっても、派手で人目をひく装飾があっても、それがすなわち黄金ではない。カタチの向こう側には作者の魂が、実は透けて見えちゃうものだよね。徒花か実を結ぶ花かは魂という球根ひとつの問題かと。

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ルソー展にいってきた

明日が最終日なので、世田谷美術館のルソー展に行ってきた。天気が悪くて雨まで降っていたが、“おともだちに頂いたチケットだからムダにはすまい、それに雨だし寒いから空いてるだろ……”と出かけたのだけど、寒いよ寒いよ!!凍えそうだよ!!という寒さ。しかも10年以上ぶりの世田谷美術館は、かなり混んでいたという事実。ルソーは日本で特に人気があるしなー。
ルソーの絵自体は少なかったけど、区立美術館としては頑張っているのは認めたい。てか、絵が一部鉛色っぽく変色・褪色して見えたけど、あれは絵の具のせいであろうか? ルソーはアカデミックな教育をうけた画家ではないので、絵の具の物理的特性を承知してなかったと思うし。この時期は新たな顔料が大量に出てきた時代でもあるそーで、たしかジンクホワイトも印象派の時代辺りに出てきて、その後は多用されたとか聞いたような。100年たってないのにもうヒビが入ってる作品もあった。……そう考えるとやっばスゲーよ>ヴァン=ダイク
じろじろと作品を見る。あのルソーの特徴的な曲線やグラデーションを見ているうち、 「そ、そうか、この人、絵筆で塗り塗りするのが気持ちよかったんだな?」 という気がしてきた。こてこて絵の具を筆でべと~っと練り練り塗り塗りするのは生理的に気持ちいい部分もある。つまり、「こういう作品を創造する!」 ってーのもさることながら、描く行為自体が楽しくて好きだったのではあるまいか。
しかし。ルソーの壮絶な稚拙さは、私たちにとってはもう既知のスタイルなので味として映るが、これを最初に見た人たちは腰を抜かしただろうなぁ。一種のアウトサイダーアートに近く見えただろう。19世紀、写真がどんどん一般化していく中で、絵画は進むべき道や表現技法などをめぐって、むちゃくちゃに混迷したわけで、そういう中でルソーも評価されたのだけど……。でも好きなものを描いて、評価されて、良い仲間ができて、しあわせな人だったと思うなぁ。なんといっても40から描きはじめた辺りは心強い!(笑)。

展覧会の帰り、さむさに震えながら通り抜けた砧公園の道は、、黄金のいちょうや紅く染まった紅葉などが散り敷いていて、なんとなくルソーの描く自然風景のようですた。チケットをご寄付いただいたSさま、ありがとうございました m( _ _ )m

※「壮絶に稚拙」とかムチャクチャ言ってますが、私が人生で初めて買った画集はルソーです(笑)。小学校高学年の時にザキの有隣堂の中2階で1時間近くあれこれ比べて悩んで買った600円(当時)のミニ画集は、ながらく私の宝物でした。

※……いまAmazonでルソーの画集を検索したら赤瀬川原平が「ルソーの夢」なる本を出してた。さっそく図書館で予約しよっと♪(画集は高いし嵩張るので、もっぱら借り)

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よいオトナになりたい(ゲットーの谷間で)

いいトシこいてつけるタイトルではないが、そういうふうに想うことが最近は多々あったりもする。
身近に憧れるオトナ(つーかロールモデル)は特に居なかったが、救われた!という経験は何度かある。特に、もはや四半世紀前になる経験は、今も心に生きていたりする。
今日はちょっとお東陽先生の話にでも出てきそうなゲットー思い出話など。長いよ?

横浜では桜木町のガード下の落書きが一種の名物になっている。大昔は暴走族のスプレー書きであり、それからN.Y.のキース・ヘリングのようにロコ・サトシ氏が絵を描き出し、それからしばし経って海の向こうでの流行を輸入するようにペイントが増えていった。四半世紀前は、たぶんロコ氏がようやく逮捕されなくなって来た頃だろうか?
血気さかんでスパークだった私も、何ぞ描きたかった。だが桜木町のガード下で描くのはイヤだった。てか、人が苦労して開拓した場所でケツ馬に乗るように描くのは、記念スナップの時に横から割り込んできてVサインか何かでドアップで映って一人だけ悦に入るDQNなやり方だ。美しくない。人のふんどしで相撲を取るのは弱い三流ヤンキーの思考であって、ちゃんとした不良でもなければ、アーティストでもない。つかそもそも、唯一無二の在り方を願わない人間は表現なんかすることないのだ。肝心の表現はともかく、その程度の分別はわきまえていた。

で。うちからそう遠くない、駅へと続く道の壁面をねらった。中が公共施設で、ぐるりと壁に囲まれてて、つるつるしていて、描きやすそうだった。何で描いたらいいのやら画材の見当もつかなかったので、超極太マジックを