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2009年6月

けっこうよかった読書

さきおとついの夜かな、町田康の「告白」 をよんだ。図書館で予約を入れてて、何しろ分厚いからか、半年かけてようやく来た。
夜も更けて、さわりだけ読むべぇ、と開いたんだけどリズムがよくて、結局その夜のうちに三時間半でイッキ読了した。半年待って三時間半かよ。ま、それだけイイ感じに読めたのは望外のよろこびだった。さくさく読めるが、じっくりも読める本っつーのはいいやね。

むかしっからリズムある上方のねちこい文体が好きで(野坂昭如なんかも好きだったりして)、そのせいもあろうかともおもうが……、しかしあの内容の軽さと悲痛さと重さのあんまりさは、生理的リズムにクる河内コトバでなければ書けなかったと思う。文庫版の解説は石牟礼道子が書いているけど、踏まえたいい人選だよな。言ってることはこの話の良さを捉え切れてないとおもうけど。

町田康の文体は、パンク・ミュージシャンだからだろか、文章の意味は破調ながらノリは正統。街宣カーみたいな乱調をストレートなロッケンロール王道でがなりたてるのがパンクの手法だからか? このヒトの曲は一度もきいたことないので、私にとってこのヒトは文章家さんなんだが。
「くっすん大黒」なんかもキラと魅力はあったけどそれだけで、とはいえそれでも気になる存在で、何年もたち、評判のよいこの大作だったらどうかなぁ、と読んでみたら (・∀・)イイ! 。
こういうときって、たのしい話を読めた嬉しさと、作家が水脈を掘り当てた時を見届けた嬉しさと、自分の目の正しさが証明されたような嬉しさが重なって、実によい読書なことだよ。くほほ(パロかよw)。

話としては、妙なとこで妙な風に屈折してしまった男の一生を語るペーソスあふれる悲劇なのだけど、ばくち打ちがどうして良いとこでばくちを切り上げられないのかとか、思っていることをすらすらと言えて伝わるひとがいる(いない)感覚とか、なかなか読んでてふんふんと頷くことしきりだった。主題のほうは、なんつーか実存とかタマシイの問題につながっていって、実に重いんだけどね。
 生と死が 感応しあう 夏祭り ……「河内十人斬り」を聴いてみたくなってしまった。
しかし2005年の本なんだよな。世間から何年おくれてんねん。


※……単行本レビューを見て知る。なんと新聞連載時は畑中純が挿絵を描いてたんだとぉ~!?
なんでや、なんで絵を外すんやぁぁぁぁぁ!! 見たかった。つか、連載途中で「つづきは単行本で」となってたんだと? 畑中純の挿絵をフルに入れて出版しなおせや!どあほ!

みらい

マイケル・ジャクソンが亡くなった。私のせぇしゅん時代における世界的ポップ・アイコンであった。

などと枕を振っておいて。

今日はいろいろとでんわをかけ、好きな人たちと話したのだが、極道クリスチャン姉の話によると、いまやこどもの置かれている状態はたいへんにナンギだとか。3つか4つのこどもに6つも7つも習い事させるって何やねん。……親が期待をかけてるっつーよりも、うちで面倒を見たくないということらしい。まるでペットやな。そんなこんなで情緒的に安定しない、自信のない子が増え、さらには多動児なぞもおおく、公立中学なぞは1/3がふらふら立ち歩いてて授業にならないとか。いったいどういうことなんだ。

冒頭にひいたマイケルなんぞも、奇行で騒がれまくったヒトだが、ガキの頃から天才であると同時に虐待ずくめのコで、学校にもロクに行かせてもらえずにステージ回り、ナイトクラブの楽屋で父親や長兄が女をレイプ同然にヨロシクしてる横で膝を抱えてうずくまり、父親に殴られながら歌を歌わされ……、とかもうなんかむごい子供時代だったそうだ。さらに後年、苦悩から逃れるため母親と共に信仰してたエホバの証人に「スリラー」PVを否定され、自己批判までしたのに許されず……とかいう気の毒にすぎる話もあるらしいが。

親の不幸を託されるという意味で、こどもというのは気の毒な存在である。
こどもを持たぬ身で偉そうに言えないが、親はできるだけしあわせに(おしあわせに、ではなく)暮らすのが、子供のためであろ。いや、親が「しあわせ」を計り間違えてるから、そのぶん子供が不幸になるのだろうが。
この時代、親もたいへんだし、こどももたいへんである。

とりあえず、こどもがない身のひとつの義務として(生きながらえられるのを前提として)、自分が出会う自分より若い人に対しては、できれば少しでも、自分が今までに出会ってきた「好きなおとな」のように接していきたいものだと思ってる。
……いや、“因業で貧乏で変なシュミで下品だが、なんかあまりキライになれない” という、東陽片岡の世界的なヒト程度でいいのだが。そういうヘンテコだけどキライになれない、つまりは等身大の大人というのは、昔は良く界隈に居たような気もするのだが。かっこよくもリッパでもないけど、精一杯生きてる大人。

昔は村が町が、そして一昔前は企業が、共同体として機能し、いま“機能する共同体”というのは何なのだろうか。こどもが安心できるゆりかごがどこにもない、というのは広義の意味で虐待に入るのではないんだろか。

だってヒレだもん

来年のことは皆目わからないけど何とか生きてるまいにち。旧交をあたためたり、身内の手伝いをしたり、なにやらかにやら。一日五時間(実働は三時間くらいか?)でヘロヘロしていてはいかんのだが……。減薬していたらめまいがひどくなったので、また元のもくあみ。だがおかげで、睡眠十時間以上になることをのぞいては、生活に支障はない。

暑くなってきたせいか、周囲をみても、少しづつ復調してきたり、転機を迎えたり、いろいろ動き始めている。
私はといえば、どうしよう……というくらい代わり映えのしない日々をすごしている。
周りのがんばりを見ると、ホントに自分は何事も為さずに生きてきたなぁ、と呆れはてて泣けてくる。
だが、ここで焦っては間違いなくコケる。なにごともなく一日を過ごせたのがありがたい、くらいの気持ちを保てるようにつとめたい。とりあえずの職はあり、在り難い連れもいる(過日は梅シロップを仕込んでくれた)。
人が数キロ進むあいだに自分が1mしか進めなくても、「だって(セイウチだから)、ヒレだもん……」くらいに、自分に甘く優しく過保護でいたい、夏至のよる。あゆみが遅くとも早くとも、みんなハッピーになりましょう♪

下弦の月をながめつつ

まだまだ不慣れではあるけど、なんとか息をつきはじめた毎日。
真夏になると忙しいというけれど、いまはヒマ。つか、おそい時間になると一時間に一本くらいしかでんわを取らなかったりする。
ただ座っているだけで時給をもらっていいのだろうか、とも思うが……らくがきもできずネットも見られず、ただただ座っているのもダルいもんである。自由にかきものもできないと、ちょっぴり刑務所の囚人のキモチがわかる気がする。夜間手当もついてるのだから、ただのゼータクだとはわかっているが。

いまの勤務先は、私的には大嫌いな高層ビルだが(いままで高層ビルで働いてロクな目に遭ったことがない)さいわい低層階だし、海も見えるし、建物内の雰囲気もまったりしていて有り難い。
周囲のひとびとは、留学貯金とかホテルのビュッフェ食べ歩きのためとか語学学校のためとか言って働いてるので明らかに私だけ異質だが、ぼーっと・おとなしく・たよりない・目立たないキャラしてるので特に問題はない。
どうにも夜型全開になってしまうのと、勝手に減薬を試みはじめているので、ダルくてかなわんけど……クラクラするしビリシャン(頭の中でシャンシャン音がしたりビリビリしたり)するし……、まぁ、ともかく何とかしのいでる。

生きてる時間を、すこしづつ、すこしづつ、いい感じに充たしていきたいもんだす。

※タイトルの「下弦の月」は「NANA」の矢沢あいのマンガ。ついこないだ読みました。映画にもなり、主人公はHYDEが演じましたが、本来は吉井さんの美形バリバリ・ロビン時代がモデル。まんまだよ(笑)。つか、話自体が「エデンの夜に」というイエモンの曲がモチーフだし。

火の歌(昨今かんがえること)

そんなヘロヘロな日々の充電方法は、(古本でまとめて買い叩いた)まんがを読んだり、お経を読んだり。
お経でリフレッシュするなよ~!と言われそうだが、これがなかなかいいのだ。昔の教育といえば漢文の素読だったそうだが、音読はなんかいい。意味もわからず読んでるうち、だんだん意味がわかってきたりするのもいい。

ネット……世の衆生が皆おなじようにナニかしら呟いてる場……を見渡し、その口もとに耳ちかづけたとき。
それが世を恨み人を恨む呪詛と否定の言葉だったら、どんなにイヤげであろ。
たのしい、ためになる、あるいは智慧にみちた肯定的な言葉であったら、なかなかイイとおもう。

鬱になって、心を折られたから、光をもとめる気持ちが湧いてきた。
なんつーか、冗談ではなく、すくなくともオカルティスト(……この場でのオカルトの定義って世間とはちとちがうんだけど……)のはしくれである(と自負する)私にとっては、このしばらくが、“オカルティスト新生モード突入”というか、“新世紀の光”を求めて生き始めたはじまり、という感じにさえ思えてるのだ。……エヴァのぱちんこにかこつけて言うなよ、って感じだけど(笑)。

現実的には、完全にどんづまりの闇にしかみえないけど、なんか精神的には、アカツキが見えてきてる気がするようなしないような。
なんか、祝福なのか、破綻なのか。ひとが夜明けを見てる時とおなじく “すげぇ……” としか言えないけど。

“精神的な手すりとして” 在家仏教団体に係わらせてもらって、たいへん感謝もしてる(大変にまた~りしてて実に得難く有り難い場所である)けども、私がのすのすと這い寄ってる行為と対象は、宗派や宗教の容れ物にはとじこめられそうもない。

“世界を見ている自分”が、世界ではなく“自分の視神経を書き換えてく”ような……また、それを通して“世界を変えてゆく”という精神(霊的?)活動。これは知恵ある生命しかやらない、“人間性”の極といえる行為ではなかろか。
それを、意識的かつ継続的に、おこないつづけること。
……これを信仰とよんでもいいのだろうか。私はそう呼ぶのだけど。
もちろん、これは。
サイテーに転べば、自己欺瞞と狂信 (ただ受け入れ or ただ押しつけ)になってく。
最高に転じれば、瞬時も休まぬココロの炎の燃焼 として、そのひとを恒星のようにしてく。

自分はどっちの道をたどっているんだろう? イカレた道? イカした道? 萌え萌えの道?

不安にもなるし、クスリも飲むし、でも笑いと涙の六道輪廻を超えて、ベイベー、生きていたいです☆
生きてるってことは、けっこう、それだけでも素晴らしいことなんだよね。ロクに文字も読めなくなっても、ロクに暗算ができなくなっても、あるいは、自分が価値を感じてたものを失っていったとしても。
生きてるって v(・∀・)イイ! ってコトにより深く気づいてくのがキモチEから、もすこし生きていたいです。生きてることに、感謝。

6月なんだなぁ(近況)

現シゴトは今週から現場入り、ひぃひぃガクガクぶるぶるな一週間だった。
つか、メンタル・コンディションとしては「微かにひびの入ったハンプティ・ダンプティ」状態がずーっと続いているので、負荷をかけないよう、かけないよう、気をつけて過ごしている。
……意味不明だったら、ヒザをいたわりながら歩いてる肥り過ぎオバ、みたいなものを想像してほしい。その場合、痩せろよ、と一言で済むことだが、痩せは一朝一夕には成らぬもの。元気になれよ、というのも同じことだ。一瞬にして元気になって笑顔を返せたなら、どれほどに楽であろ。せつない。

わが地元の開港150周年祝い、祭りの花火は職場から見た。とはいえ、高層マンションが真ん前に立ってて邪魔なこと邪魔なこと。蹴たぐり倒してやりたくなった。
あらゆる思惑やナニやら推察もできはしてもいちおう地元の祝いなので、本来はブログで前宣伝でもしたいところだったが、書くのが事後になって残念なかぎり。
ともかく疲労困憊していてナニも書けなかった。まいにち十時間寝ては、死人のよーな顔をして職場へおもむいてた。……たかが一日五時間労働で死なれていては雇うほうだってたまったもんじゃなかろうが(笑)。ふ~。

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