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聴けるうれしさ(生きる日々)

うれしげに吉井さんのアルバムについて書いたが、実はけっこう長いあいだ、うつの影響だろう、音楽をまるで聴けなかった。どこに行くにもチューインガム持参、「No Music No Life」みたいな私だというのに、そうなってしまったことに自分でもびっくりしていた。こうして音楽をたのしめるようになったのは、回復してきたということか。

うつ真っ最中は食欲や性欲や睡眠欲やらがなくなるが、精神の食べ物も天然に近いものしか受け付けられなくなってしまうようだ。
で、本なぞは「読まないと……」と思って読んでも、読んだはしからサラサラとアタマからこぼれ落ちる。
だいすきな音楽も苦痛にしかならなくて、半年以上にわたって、ほとんど聴けなかった。聴けるのは、連れがたまにかけるバッハくらい。モーツァルトでもキツかった。オーケストラもレンジ全体を受け取るのがキツくて、ピアノやバイオリンソロどまり。

物忘れも激しくなる、何かを覚える必要がある場面でもかたっぱしから忘れていく。若年性アルツかとも疑った。
自分が馬鹿になっていく恐怖、キチガイ(あえてこの言葉を使います)になっていく恐怖というのは、ハンパではない。かんがえることだけで生きてるような自分なのだ、『もう死んだほうがいいかな』 という言葉がアタマのなかを朝から晩までこわれたテープレコーダーのように回り続けた。

本も読めないし、音楽も聴けないし、背骨が折れたみたいに布団から起きあがれないし。
誰でもいいから苦しい苦しいと訴えたい、メールでも電話でもチャットでもいい、と思っても。他人はすべて幸せに生きていて遙かに遠くて、こんな壊れた人間なぞマトモに相手してくれるわけもないのだし、何を話しても憐れまれるだけで内心で見下げられるだけで、ともかく自分が死んでも一両日くらいしか影響はない、どころかすぐ忘れられてしまうのだし、それどころか死ねば快哉を叫ぶ人間や当然の理だと納得する人間が多いに決まっている、と考え、だから誰にも話す必要などないのだ、そんなくらいならさっさと誰にも知られないように死ねばいいのだと自分に言い聞かせ、がくがく震えながら涙を流しまくって布団を掻き抱いて歯をくいしばる。

希死念慮はあっても鬱の原因のひとつといわれる「あれこれ悩みやすい性格」ゆえ、『ここで死んだら葬式費用も出せないし、保険もロクにかけてないから連れはムチャクチャ困るだろうし、部屋汚すような死に方すると大家(実兄)に迷惑かかるし、その前に死人が出た部屋じゃ借り手がつかなくなっちゃうし、でも外で死ぬにも人目がないところでなきゃならんし、けど確認しにくる遺族のためには確認しやすい範囲の場所でないと大変だしなぁ、プロバイダ代とかが払われなくなるならブログとかは先に消しておいたほうがいいのだろうか、でもそれで理由を聞かれたら何て誤魔化せばいいんだろう……』 などとチマチマ悩みすぎて、死ぬにも死ねないから生き続けるまいにち。

自然だけが救いで、だが自然にとぼしい町中では少ない草花と天気くらいしかなく、そいで曇りや雨だと、あらゆるものに見捨てられているような気がした。晴れの日でも太陽が沈む頃になると、永遠に続く夜に突き落とされるように思えて、歯の根が合わないような不安感にのたうちまわった。連れをつかまえて自分の苦しさを何時間も訴え続け、連れが嫌な顔をすると、人としてそこまで言うかのレベルの罵倒をした挙げ句、「私が死ねばいいと思ってるんだろ!」と連呼。そういうイカれた展開が連日連夜の上演。相手も神経まいるわな。

──なんでこんな「大変だったんですよ聞いてくださいよショー」みたいな真似をさらすのかとゆーと、息子さんが鬱で休職しているという初老の女性とたまたま話す機会があり、旦那さんがその鬱の息子さんに向かってグータラ病だの怠けてるだのと罵倒していると聞かされたからだ。
もちろん私は血相変えて、「殺したいならそうすればいい、旦那さんは息子さんに死んでほしいのか!? 頼むからそれはやめてくれ」と力説・哀願した。もはや他人事ではないのだ、アタリマエではないか。

“たまたま” 私の場合は二人の姉が居てくれたおかげでたすけられて、今のところキッツイ時期は脱してきてるようにおもう。相変わらず遠出はキツいが、すくなくとも希死念慮は去った。睡眠サイクルは相変わらずムチャクチャだが、たっぷり眠れてるので良しとしよう。
だが、あくまで “たまたま恵まれて” であって、そうではない人は、どんな苦しさで今この真夜中をしのいでいるか。

つまり……、せめてもブログを読んでくださる皆様方には、もしご家族やお知り合いに鬱の人がいたら、「ああ、鬱ね」な訳知り顔でスルーもいいのだが、“身なりも構わずダラダラして虚ろな目をした芋虫のようでウザいだけのこの人は実は、生命力のギリギリで「死へといざなう力」とせめぎ合っているのかも”、とおもう想像力をもっていただけないだろうか、とお願いしたいのだ。
でもって、その「死」が象徴的な死になるのか、現実的・物理的な死になるのかは、周囲が寄せる“愛”にも依るのだということも。


今日は、おかあさんから健康雑誌が届いた。
“いつも読んどる本に、あんたのためになるかもしらん記事があったから” と。
さっそく封を開け、それらしき特集をさがしてみたら、『うつな気分になったら』 とあった。
……気分……。思わず、くすりと笑ったが、たいそう嬉しかったので、さっそくお礼の電話をして、私の愛するのんびりした四国弁で心のよろこぶ会話に時を過ごした。

それから。
近所の公園で、一本の木の一枝だけ、ソメイヨシノがわらわら咲いていた。驚いた。
だがもっと驚いたのは、早速それを花見している家族がいたこと。地域最速の花見を目撃。

今日も、生きてた。生きて、こうしてたのしく音楽を聴ける、このよろこび。
今まで何度もコケてきたし、この先、何度もコケるだろうが。ともかく、いまは春めく風をよろこびたい。

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