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ファウンデーションの興亡-場のうつろいと「鉄コン」の“俺の街”

なんか先日、ワールドコンを見つつ思っていたことなども書き留めとこうと思う。まとまらないけど。

人が日常的な身分や序列といった構造から解き放たれる関係性の場、人が新生するためのとなる場である「コムニタス」というのは、確かにある。というか、あるときある場所において「顕現する」。
たとえば初期SF大会やコミケの立ち上げ時など、その中核は確実にコムニタス化していただろう。参加者が熱意や才能や献身を持ち寄りぶつけあうことで、熱くて全人的な関係性が生まれ、各人が時には大きく傷つきつつ、大きく成長したのだろうと思う。
けれど、コムニタスは長持ちしないものだ。組織が安定運営をはかるためにも、各人の精神的ストレスの限界からも、そんな波乱に富んだ関係性だけでは存在しえない。人間は安心して寄りかかれる構造をも必要とするのだ。
たとえば知識や教養の豊富さによって、あるいは人間的魅力や年功によって、コムニタス内にも自然に序列ができてきてしまう。構造から自由になったはずの場所でも構造は生まれ、序列が生まれ、格差が生まれる。
一昔前は 「マニアならこれは押さえてて当然」といった基礎教養があり、またそれを諾々と学んできたものだが、今はそうではないようだし、それはそれで一理あると思う。構造から自由な関係の場を求めてきた先で、先達たちが半人前扱いしかしてこないなら、「なんでそんな序列に従う必要があるんだよ」とキレたくなるのも無理はない気はする。それは互いにとって不幸な道ではある。新しい潮流が生まれたり、新しいコムニタスが生じたりする機会にもなるわけだけど、たらいの水ごと赤ん坊を棄てるような愚行も数限りなく起きていく。知恵と愛情の聖火リレーは難しい。
まぁ、こちらは 『世代の断絶』 みたいなところで、洋の東西を問わない悩みどころなんじゃないかと思うが。

※コムニタスの概念についてマトモに知りたい人は「境界例とインターネット」(「サイコドクターぶらり旅」内トピック)を参照してね。

それはそれとして。今日は家に帰ってからアニメの「鉄コン筋クリート」を見た。素晴らしい美術だが、ちと長い。また、あの原作独特の乾いた感じが、ぐりぐり動くアニメというメディアに変わって、エモーショナルな(ウェットな)ものになってた気がする。まぁ、より感情移入が容易になってるというべきか。

アニメ「鉄コン」では、舞台となる宝町について様々な人間が “俺の街”という。それぞれにとって、自由な遊び場であり、ナワバリであり、人生のすべてを学んだ場でもある街。けれど、誰かにとってかけがえのない街は、他の人間にとっては「自分を受け入れてくれない街」であり、やがて「受け入れたくもない街」にもなったりする。そしてある限界を超えると、陽がうつろうように街の顔が変わっていく。
でも、これは現実の「場所」についての話ではない。問題はその舞台に生きる主人公たちの「関係性」であって、街がどんなに魅力的に描かれていても、あくまで背景だ。主人公たちがこよなく愛し、同時に憎んだ宝町は戦いの舞台となり、そして主人公たちが成長を遂げたラストでは “後にしてきた景色” になる。もうそこがどのように変容しようと主人公たちには関係ない。土地とのへその緒を断ち切り、どこに行っても生きていける一人前の人間になったのだから。
結局、愛するにせよ憎むにせよ、“ある場所に永遠にとどまる”こと自体が無理なのだし、また “場所自体には何もないんだよ” ということだったりする。

このように個人としてみれば、割と手短に済む話なのだけどねぇ。
ビジネスとして成長はしたが構造化がどんどんと進み、コムニタスの法灯を絶やさない条件「全人的な参与」の範囲をぐんぐん狭められた(いわゆる「疎外化」が進んでいる)、アニメやコミック界の明日はどっちだ。

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