読んだ本・借りた本

  • seiuchiの最近読んだ本

買い忘れないように

カレンダー

無料ブログはココログ

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2007年6月

DVDまとめ見 「日本沈没」 「ファイトクラブ」 「太陽」

旧作ばかり見ました。忘れないうちにおぼえがき。

「日本沈没」……特撮がすごい。そんでもって私らみたいな公施設の見学が大好きな人にはうれしい、「ニッポンがんばってます」プロパガンダ風味がたまらん。ストーリーは……「防災の日」に中学や高校で無難に上映できる線を狙ったということでひとつ。ともかく特撮な。これは大画面が推奨だろうねぇ。

「ファイトクラブ」……影との出会いのおはなし。流血シーンがいっぱい、しかし爽快さや抗しきれない魅力もあって、そこがまた“影の国”たるゆえん。「アニマとは影を統合しないかぎり結ばれない」というわかりやすいルールでの展開。けっこう面白かった。

「太陽」……終戦前後の昭和天皇の姿。イッセー尾形が絶品。どう描いても文句がくるだろう人物を、実にうまく描けているというか……日本でもアメリカでも撮れませんな、これ。ロシア映画は慣れてないと開始15分で意識が飛ぶと思います。でも(ロシア映画としては)時間的には短いし、幻想(悪夢)シーンの雰囲気も、切って落とすようなラストも、如何にも!って感じなので、ハリウッドでない映画世界を見たい人はぜひ。

「ペルジーノ展」と「ヘンリー・ダーガー展」-個体発生は系統発生を繰り返す?

今日は実姉とひさびさに会って、たのしく美術展をハシゴ。

まず最初は、損保ジャパン東郷青児美術館……ある程度の世代には「バブル期に騒がれたゴッホのひまわりが置いてある美術館」……でのペルジーノ展。なんでもラファエロの師匠だとかという話。
興味深かったのはペルジーノの作品それ自体よりもむしろ、その前世代の作家たちの作品も並べている点。人体比率なぞムチャクチャな時代、だんだんとリアルになってく時代(レンズが導入された?)、線遠近法が使われてく時代、油彩が取り入れられた時代、空気遠近法がフツーに使われる時代、と、時代の変遷を感じられる。何か美術史をたどるというより、フツーの絵描きさんがたどる、厨房な主観絵、高校生になってやや万人向け、大学に入ってアカデミックに勉強……といった変遷をなぞるようで、なかなか楽しかった。
この時代の絵は工房で大量制作してたので、使い回しや弟子による作画はアタリマエ。「これはアシさんが描いたんだろうねー」とか、「建築物が入った難しい絵だけは先生じゃないと描けなかったんだねぇ」とか、まるで池上遼一だかさいとうたかおプロの作品だか見るような楽しみ方をしてきた。しかし、ジュニア向けの展示解説本で、「使い回す」「弟子に描かす」とかいった、ペルジーノの ”成功のひみつ” なぞ説明せずともいい気も……。コピペ厨乙、ではないか。また、宗教画に見られる顔の回りに羽根だけついたタイプの天使像をペルジーノも描いているのだけど、なかには羽根というよりラフレシアの花弁のよーでキモいものがあった。これは7/1まで。

そこから品川に移動して、原美術館のヘンリー・ダーガー展。某PATIOの皆さんと共に世田谷美術館で見た、かの「パラレル・ヴィジョン展」が懐かしい。野外の休憩所で東京ビートルズを鳴らして皆さんのヒンシュクを買ったのも懐かしい。ワタリウムにも行ったので、ダーガー展は都合三回目になるのだが、記憶の中よりも絵が小さく見えて、記憶のあやふやさにびっくり。
今回は、その孤独きわまる人生や残虐でグロイ側面ばかりを取り上げられがちなダーガー作品の、「楽園」部分に重点を置いた展覧会。最初期のコラージュ作品から、コラージュ&トレース、そしてトレース使い回し&独創、といった変遷が見える展示にしてあり、ここでも、個体発生が系統発生を繰り返しているよーな様子が面白い。またダーガーが暮らしていた室内の写真が多数展示してあるのも興味深い。さすが原美術館だなと思ったりして。
さらに。今回の収穫だったのは、(たぶん晩年の作だと思うのだけど) 背景や物体にハッキリと明暗をつけた絵を発見したこと。リアリズムの萌芽! ちょっとホンモノっぽく見えるようになった絵を前に、ダーガーはきっと、うれしかったのではないだろうか。
自分が構築した壮大な物語を 「ビジュアル化したい!」 と思い、でも絵なんてやったことがないから、丹念に素材を集めてコラージュし、それでも何か違われでトレースを始め、やがてトレースをがんがんと組み合わせ、反転させ、塗り分け、どんどん 「自分だけの世界」 を築いていく。巧い下手とかの囚われを超え、全霊の熱意にひきずられ、表現の楽園をたどたどしく、だが生々しい嬉しさに満ちて、歩いていく、そんなナマのよろこびが胸に来ました。
いつどんなふうに歩いてもいい道が誰にも拓けていること、それ自体が恩寵ってもんじゃないだろうか。
そしてまた。ダーガーの楽園風景の色遣いを見て、「独特だよなぁ……」と思ううちに、はたと気づいた。
「これは、幼い頃に見た“りぼん”(少女漫画雑誌)的な色遣いだよ!」
ダーガーにカラーインクを差し入れたかった……私ゃ使ったことないけど。新しい画材って楽しいから、悦んでもらえたと思うぞ。
こちらは7/16まで。人気がある作家だけに、平日でもそれなりに混んでます。行くつもりがあるなら早めがオススメ。ちなみに品川駅から美術館近くの「御殿山ガーデン」まで無料送迎バスが出ているので利用すると良いかと。原美術館の屋上からの心やすらぐ眺めを毀した代償として、そのくらい使ってやらんとな。

美術展ハシゴのその後は川崎に移動して、スパイシーで美味しい手羽先をたらふくご馳走になり、ゆっくり楽しく歓談し、心にふとん乾燥機をかけたような幸せな気持ちになりました。多謝。

「精霊の守り人」 読んだ

杖なしで歩けるようになったので、足の甲はまだ腫れているけども外に出歩けるようになった。いろいろと用をすべく、連日出歩いていたら、また腫れてきてしまった。つか、スニーカーの中敷きを外してヒモを思い切りゆるめないと履けない程度の腫れの引きなのに、あまり出歩いてはいけなかったようだ(サンダルだと甲が入らない)。
ということで、おとなしく本を読むことにした。おともだちのブログなどで評判がよく、「児童文学」というジャンルに入れられているから読みやすかろうということで、「精霊の守り人」。これは一作独立式の連作シリーズの第一作らしい。文庫で廉価で出ているのがさらに嬉しい(図書館ではエライ待ちになっている)。作品のあらすじや登場人物は、ネットなんだから他でも読めるので全略。以下、感想など。


年齢とともに本(特に小説)を読むのが億劫になっている。この億劫の原因を私なりに考えるに、「再構築速度の低下」が挙げられる。行ったこともない場所、会ったこともない人間、聞いたこともない世界、などを、紙にインクで記された文章から自分の脳内に移し替えて、本の世界を自分なりに再構築する能力だ。設計図を見ながら、ぱぱぱっとモデリングする能力といえようか。DNAからRNAに転写する感じ? 実はよく知らないのだが。そうして人の脳内から投射された本の世界は他人の脳内でしばし活性化する。時には逆転写までしたりする。
自我が硬直化するにつれて他人とのやりとりが面倒になるように、「ちょっとちょっと、面白い話があるんだけどさ」と呼びかける本(作者)に対して、面倒くさくなって「なんでオマエのこさえたタワ言に付き合わなきゃなんないんだよー」みたいな気になってくる。かくて私の “視野の狭い年寄り化” はがんがん進行していっている。
ちなみに、トシを取るにつれて現実の世界の観察能力は増すし知識も増えるので、あまりに描写のリアリティのない話はタワケていて読めなくなりがち。いっぽうで“全くの異世界”に対する再構築能力も落ちていきがち。勤労者のおおくが現代小説、そして一種のファンタジーとしての歴史小説や時代小説を読書の中心とするのは、無理もない話だと思う。
ということで、ファンタジー系は結構しんどいだろうなぁ、と思って読んでみたが、そんなにしんどくなかった。神話や伝承を数おおく読んだ人ならば、逆に食い足りないくらいなもんだろう。
だが、それでいいのだと思う。安いファンタジーに限って、衒学趣味まるだしの固有名詞がこれでもかと未消化のままに並べ連ねられ、得体の知れない独りよがりの術語が飛び交うものだ。九九を並べてこれは数学の本でござい、とかやっているようなもんじゃないのか。実用書にもならなきゃ異世界にも出会えない、そんなファンタジーとやらに時間を割くのは、こんなヒマ人だって御免こうむる。
その点、この本は、昨今のライトノベルの読者層あたりにとってはクサくならない程度に、異世界らしい設定や伝承が盛り込まれ、しかも作者の骨身に達している民俗学的感性のおかげでか、違和感もなく読める。翻訳本などでは訳者が理解していない部分は読者も引っかかって読めなくなるのだが、小説でも、作者が消化していない部分は読者にもウザイ異物として残るもんだし。まぁ、(民間伝承という)伏線の張り方があまりにわかりやすかったが、若い読者への作者の親切だと好意的に解釈しておきたい。
見える世界と見えない世界のくだり、カルロス・カスタネダなど読んだ人にはナワールとトナールか……とするっと了解されるだろう(もちろん二つの重複世界について述べたのはカスタネダだけではないが)。先住民の呪術師、ふたつの世界の二重視など、何となく近しさを覚える。カスタネダの「ドン・ファン」シリーズは後年カルト的になり、何より捏造疑惑が絶えないのでアカデミックな観点での価値はないだろうとも思うが、第一作と文庫で出た「未知の次元」辺りだけなら参考に読んでみると楽しいかも。
こういう異世界話をするりと読ませてしまうには、やっぱり世界をリアリティをもって描写できるだけのデッサン力(つまり目と手)の裏打ちがある。文章はくせがなく読みやすく、しかし堂々としていて、成長期のこどもにはこういう文章を読ませたいとさえ思う。個人的な傾向としてはけれん味のある文体(往々にして語りのリズムの文体)が好きだが、こういう正統派な文章も実は好きだったりする。色遣いとして解するなら、自然な中間色を遣った深みのある風景画を見ている感じ。
ってな個人的な感想からいうと文庫版の装画はいまいち。なので有隣堂のカバーかけっぱなし。本についていえば、フォントや版組や紙質などの基本装飾をなおざりに、装画でごまかすのは、デザインとして稚拙だとは思う……まぁそういう良質の本は高すぎて売れないけど。
ちなみに描写で誰もが「おお」と思うだろう部分は、食べ物。美味しそうな描写は、立ち上る湯気と匂い、かぶりつく人々の笑顔と安堵、人々の間でほぐれていく空気の感じまで、きちんと伝えてくる。こういう生活表現で魅了するには、文章のデッサン力と健やかで静謐な感性が要る。ありふれた固パンさえが魅力的なフェルメールの絵とか、さ。

もちろん、ただほのぼの系なわけではなく、戦闘シーンなどもしっかり読める。とはいえひどい残酷描写はないし、何より、ストーリーの中で絶対的な悪や根っからの悪人などは登場しない。狂気や保身や立場にとらわれ振り回される人間の弱さ、しかし自分の願いを胸に生きようとする人間の強さ、そういうありのままの姿が見てとれるし、またそれが魅力的だったりする。類型化されていない、記号化されていない、ありのままの人間のデッサンに宿る美しさというべきかもしれない。

あまりに褒めすぎな気もするので、ちょっと難をつけておくと、目と手は確かだけれど、足が弱い気がした。つまり移動にかかる距離感、時間の経過(それにともなう淡い疲れ)の感覚には乏しかった。子供の成長や事物の移り変わり、戦闘での疲労といった折々の描写はあっても、ストーリーを通して降り積もってくる、通しの時間の感覚には欠ける。もちろんこれは展開の早さやドラマ性、ましてやページ数を言ってるわけではない。
なので読み終えたあと、「いい話を読んだ」とは思えても、「旅をしてきたなぁ」とまでは思えないのが残念。本格的なファンタジーの醍醐味は、読了後の「戻ってきた……」感にあるのではないだろうか。やはりこれは、もっと長い旅の序章でしかないからだろうなぁ、と好意的に解釈しておきたい。

偶然だが、この話は秋に始まって夏至に終わるので、ちょうど夏至前に読んでいることにわくわくした。こういう小さな偶然が、意外と読書ではうれしいこととして響くよね。


ここまで読み返して。本の感想というより、「独りおだを上げては何かをけなし、自分のことはすべて棚上げでエラソウにへんな分析ばかりしてる駄文」に、当初の目的である「人様の参考になるもの」には全くならない……、と改めて気づく。しかしどうも自分はこういう書き方しかできないみたいなので、今後もこんな風に書いていくと思う。

んでもって

「ネット無いと、不便ではあるけど、生産性はあがるな」というのが、二週間ネット断ちしてみての収穫でした。
で、ちょっとはオフラインでもの作りしていきたいなー、と思うので。
今後はこのブログは身辺雑記やよしなしごとをひかえ、映画や本や展覧会の感想など、多少は人様の参考になるもののみ、備忘録的に書く程度になります。自分もそのテの情報はよく検索するからねぇ。
のんびりと、こつこつと。

小笠原旅行のてんまつ

書いていたら書ききれなくなってしまう。ということで、右下の「マイフォト」からご覧ください。

実にひさびさの一人旅。思うところは多々ありますが、わかったことも少々。
私のような人間が、こういう、人のいない場所に行くと、余計に人嫌いをこじらせてしまう(笑)。
ので、さっさと帰ってきて良かったと思います。うん。

帰ってきた途端に

帰ってきました。小笠原の父島から。
地元の人によると、十年ぶりかという梅雨で、丸10日の滞在中、晴れたのは正味2日未満。
それは個人的にはまぁ、構わなかったんですが。

帰ってきて一息ついて、連れと散歩に出た時、舗道の途中が陥没してるのに気づかずにコケて、ねんざして松葉杖ついて帰ってくるハメに。

スコールの中、一人きりで、小笠原の山道を歩いても無事だったのに、地元でコレかい!

てなことで、災難にくわえ、雑事多々あるので、ご報告はまたのちのちに。

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »