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2006年6月

さよなら6月 こんちは7月

だゆだゆしているのは相変わらずだが、今日はたのしいことやうれしいことがいくつかあった。
雲の上のエライ人が実はゲットー町内出身&小学校は同窓と知って急に身近に感じたり、ファンクシスターズと夕べの一杯をともにして(正確にいうと自分一人はケーキだが)イヤげに咲き狂う女の園&男の園を悲憤慷慨したり、吉井さんのファンクラブ限定らいぶチケットが無事に当選してたり(1階立見席……体力保つかな?)。
ともかく、驚いたり泣いたり笑ったり冷え込んだり暑かったり雨ふったり、けっこー消耗させられたお誕生月だったが、とりあえず今日でおしまい。
んで七月がやってくる。暑いんだろうなぁ。でも、くさくさしている自分にも皆様にも、よいことがたくさん起きますように。

何気なくヘタヘタ

自分でもよくわからなかったが、どうやら疲れているらしい。先週から風邪気味なのだけど、治らない。それより何より、ブログの書き込みが相当に間が空いたことが、何より証拠に思える。この間、気まぐれで “死体置き場(モルグ)放置ぷれい” のような岩盤浴にもトライしてみたりしたが、かえって消耗しただけのような気もする。
思えるとか、気がするとか、自分でも体調がよくわからない。というと、「ああ、神経が張っているんだな……」とか「何かに打ち込んでいたんだな……」とか善意に解釈していただけるかもしれないが、端的にいって鈍いだけである。自分では十二分にタフなつもりでいるのだが、どこかに出かけるたび熱を出すのでは、タフとは違う気もする。かといって虚弱というのでもない、そう、まるで二歳児。うれしがりエネルギーとか出かけようエネルギーにカラダがついてこないのだ。
ということで、時給労働者の自滅ぷれいの一環として、明日は有給を食いつぶして、たっぷりと寝込む予定。思えば私は眠るのがだいすきだ。惰眠をむさぼるのが好きで好きでたまらない。ここまで言い切るのも人としてどうかと思うけど。昔の人は “寝るほど楽は無かりけり” といったもんだが……深い深い眠りはやはりリフレッシュには欠かせないね。うん。

ちゅうかがい雑感

今日の昼は会社の若人たちに便乗して、中華街で刀削麺をたべた。ぺろぺろしたうどんのような食感でおいしかった。しかも量が多かった。しかも700えん。

だが中華街はわかりやすい町で、土日祝は格安ランチなぞ出しはしない。もちろん客に愛想など振りまかないのはデフォルト。それで「対応が悪い」とキレる観光客もいるようだ。
しかし冷静に考えて、いままで何の付き合いもない仲なのに、はした金でオイシイ思いをしよう、いや、して当然なんだ、などと思う人間というのは、単なる馬鹿と呼ぶべきではないのか。それが世界標準の感性だと思うのだが。

フーゾクをたとえにひくのもナニだが、昔の遊郭では、上がっても敵娼(あいかた)が何もさせてくれず朝方にとぼとぼ帰される、などということはフツーだったと聞く。人間対人間のコミュニケーションではそれがアタリマエでもあろう。だがまぁ、今のフーゾクではそんなことはまずあるまい。高度成長期に入って、都会に大量発生した“一見さん”に商売するための「正価サービス」がトーゼンのこととされ、やがて「金はらってんだから俺は客だー」と開き直る馬鹿が増えた。自分は金を払われれば何でもするという裏返しだろうか、卑しいことだ。

……私が知ってる一昔前の横浜の人には、こーゆー「馬鹿は馬鹿にする」感性の人が多かった。なんと失礼なと憤慨されるかもしれないが、馬鹿をテキトーにあしらって金だけ巻き上げる昨今の風潮のほうが、対等の人間扱いをしてないという意味では、失礼な気もする。相当にキツいことばっか言われ、凹まされてはいたが、熱い血も涙もあったあーゆー人たちがふと懐かしい。

お三十路の町&球蹴り

今日は昨日ついたばかりの東陽片岡Tシャツを着て、近所の銭湯に行ってみた。
腐れなゲットー地区、うらぶれの効いた下町。下北沢あたりならヒネったオシャレにもなりそな東陽片岡Tシャツが、あまりにもシックに溶け込んでキマるのに泣けた。
だがこのTシャツの、姉と妹のトホホながらも心なごむ笑顔、リアル姉妹持ち(しかも三十路オーバー)には心から勧めたい。

サッカーはよく知らないが、TVを見ていると、外国のひとびとは何も考えずボーンと蹴っ飛ばしてガーンと球が飛んでズバーンと入ってるように見える。技術とかそういう問題ではないのではないか。そもそもサッカーは敵の生首を敵の城内(=市内)に蹴りこむ血腥いあそびがルーツと聞く(だから英国では貧乏人はサッカーで貴族はラグビーをやるのだとも)。では獰猛さの問題かというとそうでもなかろ。
サッカーが強いブラジルとかイタリアとかスペインとかフランスは皆カソリックだが、信じるものがあると「シュート!」の啓示も降りるのではなかろか。見事な技というのは、自力だけでキマるもんでもないし、他力だけではもっとムリで、ふしぎな調和が要るのであろ。
カミカゼが非科学的であったとしても、信じること自体は非科学的でも何でもない。てゆーか、信じなくなった人々には奇跡は訪れないのではなかろか。勝利の女神だってドラマチックかつ熱烈に恋い慕われたほうがなびいてくれそーな気もするしな。あまり激しいとストーカーだが。

また一周

誕生日。何回目かと問われれば、“地球よりは若いな” ということで。うん。
おともだちズにランチで祝ってもらい、シゴト後は、また病院で今度は四人きょうだいが集合してお医者さんとトーク。んでもってファミレスでダベる。末っ子らしく甲斐甲斐しくパシる。

地球がぐるぐると回りながら、太陽のまわりを廻る。そいで一年が経つ。
太陽は太陽でまた、何ぞをめぐって、ぐるぐる廻っている。銀河系自体もぐるぐる廻っているとか聞く。本当かどうかは知らないが。宇宙は踊りたおして過ぎてゆく。まるで回り舞台だ。“世界は舞台、男も女もみな役者”とか、“貴男も貴女もみな star”とか。
とりあえず、この365日、私も地球と一緒に、太陽の回りをぐるりと廻ったわけだ。次周もまた、照る日雨の日、はたまた春夏秋冬に踊り踊らされつつも、こころ楽しく廻れますように。

……とか書いてたら、日付かわっちまったよーい!!

歌え歌え

昨日はクラッシックというか、けったいなコンサートに行ってきた。作曲家で箏曲家の宮城道雄の没後50周年記念のお琴のコンサート。だが千住真理子も出るので、それ目当てに行ってきました。はしっこだけど前から三列目で良かった。十代の頃に人に紹介されて読んだ思い出の小説「伽耶子のために」で名のみ知る、伽耶琴(カヤグム)もはじめて音を聞いた。
千住真理子、すごかったです。音楽家は肉体労働者、そして職人ですな。大工の源さんつーか、バッハだから宮大工かな、そんな感じです。バイオリニストというと優雅なイメージでしたが、そーゆーもんではないです。でも、タマシイこもってます。あのしゃべるバイオリンの音はまた聞きたいなぁ。

前にさんざんに書いたジブリの「ゲド戦記」ですが、公式サイトで主題歌を聴いて、ちょっと気持ちがゆるみました。「♪こころを何にたとえよう……」という歌詞を聞いて、朔太郎の詩をもちろん思い出していたのですが、実際、その詩を元にしていると知って、ちと気持ちが和んだということで。好きなもの(しかもマイナー)を好きだと聞くと、相手がちょっとイイ奴に思えてくるものですよね。
でも原詩の「こころをばなににたとへん」の部分を、リア消だった私が「心を ばなに に たとへん」と区切って読んでて、長く意味不明なままに記憶していたことはヒミツ。

心の平和

消耗していたので、きょうはお絵かき教室にいった。300円程度のリポDローヤルも飲んだ。
絵を描くのはひさびさだし、ちょっと時間に遅れたので、前のヘルメス神像絵の仕上げを軽くしようと思っていたのだが、ちょうど席が埋まっていて、違う絵を描き始めることにした。これがまぁ、カタチを取るのがヘタなもんだから最初は手間取るのなんの……。

今日描いてたのは、うっとりするほど魅力的なヴィーナス神像なのだが、困ったことにギリシア彫刻というのは、ちょっとでもカタチを狂わせて描くと、なんだか鈍くさく不細工な粘土細工みたいにしか見えなくなる。したがって、今んとこ、ダサくて見苦しいナニかを紙の上に留めることしかできない。
また正直にいって、いざ描いてみるぞとマジマジと見るまでの私は、ギリシア彫刻の美などというものを発見することはできなかった。私のギリシア彫刻への理解っつーのは、世間一般の 「わ~、きれい~」 で片づける、いわばお愛想でスルーする存在でしかなかったのだなぁ、としみじみ思う。

ものごとの上には耳なし法一よろしく、無数のコトバが書いてある。彫刻の上にももちろん、美にまつわる “コトバならぬコトバ” が書かれているのだが、今までの自分はそれが読めずにいたので、“物体” として扱っていた。しかしあれは物体ではなくて明らかに “本” だ。つまり人と関わりのないオブジェクトではなく、人の精神のなかで生を得る共生物、悪く言えば “ウィルス” だ。
考えてみるに、 「固まった高野豆腐を、自分の心の池にひたして戻して、そのさまを提示する」のがお絵かきなのかもしれない。そう考えると、抽象画やシュールリアリズムなんてーのは、心の池の湯葉やおぼろ豆腐をそのまま引き上げたんだよ、とも言えないこともない。

で、私の心の池に戻して見たヴィーナス神像は、むちゃくちゃにデリケートな調和(ハーモニー)の均衡点。“ここからちょっとでも動かすと崩れちゃうよ~”という完璧なカノンといいますか。そういうものをヘタな腕前で必死に描いていると、なんか画面がドリフのギャグのカタストロフシーンに思えてきて、へげへげになってしまう。
心の平和というものも、とてもデリケートで、一瞬でドリフ化してしまう何かにやあらむ。だが絵だって時間をかけていればある程度はマシになるもの、心の平和というのも、やがてはもう少し獲得できるようになるだろう。うん。

ファミリー

うちは強力に女系家族。
なので、母親の手術にあたっては、パワフル三姉妹が揃って立ち会い、さらに長女の娘(つまり姪)とその幼い娘まで来て、ベッドの周りを看護婦さんが取り巻き、女だらけで何が何やらなほどムチャクチャであった。麻酔が醒めたあとの母を励まし、あとは実家に戻って女ばっかで酒盛り。いや、私だけ呑めないんですがね。何やかんやと語りまくって……ともかく疲労しまくりました。
ともあれ、愛と思いやり念波を送ってくださった皆様に、感謝。

人を愛すれば、喜びの涙もいっぱい流すし、悲しみの血もいっぱい流す。どっちも温かいし、塩辛いしで、海のようだったりする。これからは、そーゆー海を抱えこんでおけるだけの広くて強い心を持たなきゃなぁ、と思う。うん。

疲れ目対策

ともかく疲れ目がひどい。なら、家にかえってぱそこんいじるな、と言われそうだが、それはムリ。
なので、毎晩、寝る前に蒸しタオルを乗せてみたりしている。これはなかなか効くのでおためしあれ。また、連れのアドバイスで、部屋の天井の照明は落として、机や手もとだけを明るくして、ぱそこんに向かうことにした。これもなかなか良い感じ。
むかしは両目2.0だったが、今では乱視も入って0.2と0.3。だがメガネは苦手なので普段はかけない。コンタクトはアレルギーゆえに医者にやめとけと言われた。
しかし目の性能は分解能だけではあるまい。大昔のAppleIIは色味が滲んでいてそれが何とも美しい味わいを出していたと連れから聞いたことがあるが、そんなもんだろう(ちと違うか)。ルノアールの晩年はとてつもなく目が悪かったともいう。物理的な目をいたわりつつも、ココロの目も磨いていかなきゃなぁ。まだまだ成長期。

そう来るか

吉井さんの8月9日発売の新曲、タイトルは……
「Weekender」

……「Love Love Show」やら「Rainbow man」に飽きたらず、また三十代後半以上向けのネタを……。
だが、そんな吉井さんを力の限り応援したい。うむ。

すっとこどっこいバトルロイヤル

ゲットーシスターから、最近の腐れリア消ども(=小学生の意)は学校行事という公的な場であろうと、異国からいらしたジェントルなお客様を囲んで珍獣のごとく写メールバシバシ撮りまくると聞いて、衣食は足りても礼節もハートもアタマも足りなさすぎな状態が目下のニホンで大行進中という事実に心底アタマを抱える。
少子化で、かろうじての子供たちもそれかい……、と絶望的な気持ちにもなるが、しかし親ばかりを責めるのも酷であろう。多くが共働きのご時勢、親たちだって仕事のストレスを抱えつつ家庭の維持に必死なのだし。両親がフツーにいたわりあっている家庭というものさえ結構な高望みかもしれない。その上に両親ともに向学心やら人としてのモラルやらを備えてるとかいったら、間違いなく希少価値だ。
まぁ大富豪でもない限り、そういうご家庭はつつましい生活になるわけだが、それはそれで立派で素晴らしい、という価値観は昔の日本にはあったし、外国でもある程度以上の階級出身の人ならそう考えるだろう。しかしどこのハイパーアメリカンな価値観か知らないが、「すべて」に秀でていなければ負け、という現実乖離した価値観を現実に持ち込むようになったのが昨今なわけで。厨房のマンガの主人公をリアルに夢見てる感じですな。
かくて多数を不幸な“負け組”に見立てて、少数を“勝ち組”に見立て、次の幕では“勝ち組転落す”をムラ社会的に叩いてわあわあと喜ぶよーなビンボくさい田舎ショーばっか、毎日マスコミとやらが煽ってると。欧米風のフリはしても心根があまりにアジア的というか……なんちゅーか、泣ける。

90年代からか、国際化国際化と喧しくはなったが、諸外国のカルチャーのなかでも一番低い文化レベルばかりを取り入れてる(つーか迎合してる)気がする。水は低きに流れるというが。
世界はたてにもよこにも広く、決して美しくもキレイごとばかりでもないにせよ、どんな国も犯罪者やペテン師ばかりで出来てるわけではなく、まっとうな人は一定程度いる。まっとうな人と友達になりたかったら、自分がまっとうな人になりなさいというが……。まっとうな外国の人と友好したかったら、まず国内でまっとうな人を増やさにゃムリだろ、と思うのであった。

そうだ、皆さんに尋ねてみたいのだが。ヒップホップスタイルは日本の若者の間でも一定の人気を得ているようだが……往々にして“デブなりのcool”をきめる手段、直言すればただの小肥りカバーstyleになりさがってる気がするのは私だけだろうか? いや、まったく余計なお世話なんだけどね。うん。

お誕生月ですが

昨日は自分の定期健康診断のあと、病院に面会。点滴効果のせいか元気を取り戻して、たちまち騒ぎまくっている母に呆れつつも安心。てゆーか、もう少し病人らしく、しおらしくしてほしい気も。ただトシがトシのため心臓が弱っていて、手術の日程は検査次第ということに変わったらしい。ふむ。
あれやこれやで、生活に潤いがなくなってはいけない。音楽をたくさん聴いたり、肩にバンテリン塗りまくったり、床でごろごろしたりして、力の限りリラックスにつとめている。ずいぶんと意味不明なリラックス方法だが。
「勉強がー!」とか「スキルアップがー!」とかも脳裏をよぎるが、考えるだけでやらないのだから時間のムダ。もはや考えるのはやめようと思う。つまり、”頑張る” ということもひとつの才能なのだ。で、そうなってくると、『“頑張る”ことを頑張れない』 という出口のなさに直面する。
つまり人は、少なくとも自分は、好きなことしかやれない。好きなことをやるというのは、“頑張る” のではなく、“欲張る” ということだ。あまり欲張りが過ぎても疲れる。嫌いなことも好きなこともしない、なんにもしない時間、というのも相当に必要なものだ。お誕生月を人生で数十回以上も迎えている身ではあるが、そんなことにあらためて気づいてみてたりして。
バクチでは「頭とシッポはくれてやれ」というが、人間の持ち時間も、睡眠時間ばかりでない一部を「からっぽ」のために確保しといてやらなきゃならないのかもね。

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