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2004年7月

おやおや

 ひさしぶりにヤフオクに出品。梱包するなどの手間が面倒で、多少モノが溜まっても溜めっぱなしにしているのだが、それもイヤになったので試しに出してみた。今回出品したのはいわゆる白っぽい本やささやかなパーツなど、いったい誰が入札するものやらという感じだった。
 だが意外にもほとんど落札されてしまったので、ややびっくり。しかも、自分としては目玉だと思っていたものが売れず、放置だと思っていたものが入札を集めるなどの展開もあった。考えてみればそれらは自分にとって要らないものだ、要らないという人間と欲しいという人間ではおのずと勘所が変わってきても当然かもしれない。
 ヒトも旅をするがモノも旅をする。この部屋にある大小さまざまなものも、エラく遠くから・様々な人の手を経て、やってきてたりする。今日にでも手もとを離れるモノたちが、旅を楽しんでくれるといいな。

つむじ風

 のほほんと生きてきた身の上だと、どうもプレッシャーに弱くなる。いろいろと思い悩むことも増える。だが下手の考え休むに似たりともいう。どうもアタマが動かない日だってある。
 なので、朝っぱらから市のスポーツセンターに行って、ざぶざぶと泳いで(もがいて)きた。スポーツクラブのプールよりも若くてキレイな娘さんが多かったのには驚いたが、考えてみれば、そう高収入でもない年代の娘さんがこぞってジムに通っていた時代のほうが異常だったわけで。まぁ、自分の『未来』への投資だと考えればそれもアリだったろうが、今ではそんな玉の輿その他の成り上がり的サクセスストーリーを目指すのはもはや少数派ではなかろうか。
 みなそれぞれのシアワセの形がある。この言葉は真実だが、今は情報が高度化・細分化された結果、『他人のシアワセの形がよくわからない』、から……、つまり隣の芝生が覗き見できなくなってきたから、そう言っておけば自分を納得させることができる(=安心できる)言葉として流通している気がする。
 そして、その言葉に従って、『人は人・自分は自分』でやってみたら、意外とみんな考えることは似たようなもんだった、という展開になっていく。家内円満・商売繁盛・無病息災、とかそういう話(笑)。そこでまた、『それぞれ』という個が、よく吟味もされないうちに『みんな』に収斂されていく……。フーガのようなもんか?
 自分のシアワセの輪郭をよくよく考えねば。むずかしい。真昼だが、もう寝よう(笑)。

まつり

 昨日は筋肉ミュージカルなるものを見に行った。バレエだの何だのとカラダ鑑賞が続いているが、つまりは肉体の衰えが気になる年代だからだろう。
 出し物自体は、アマチュアならではのひたむきさと前向きさに、TV局ならではの決してハズさない万人向けの演出が加わって、十分に楽しめた。お金を払ってまでしかめつらをする必要もないわけで。
 そういうイベントは当然、エネルギー的には粗い(そうでなきゃ皆が楽しめない)ので、体育会系の若い男女の精気を活かしたエロス的なもの(エロではない)が盛りだくさん。昔ならば身体能力的に劣等感を覚えていただろうが、今ではただハァハァと感心するばかり。純粋にたのしめる。鍛えられた身体が拝めるだけでも何だかありがたいものだ。冗談抜きで拝みたくなるようなものがある。
 それにしても。時分の花の美しさというのは、見ていてやたら感傷的になる。とはいえ、時が一回性のものである以上、あらゆるきらめきは時分の花なわけで。そう思えば人は皆うつくしい。いきものは皆うつくしい。
 中華街で、んまい水ギョーザを食べながら、台湾人らしき好々爺に追加の注文をしながら、そんなことを思った。

魔術の伝統

昨夜は、直接対面は8年振りくらいになる(?)知己と、本にまつわる催し(高座+オフ会ライク)に。
リッパな芸人さん、アマチュアさん、問わず、文章を愛する心はどこかで通じ、どこかで気持ちがやすらぐ。高等遊民というより下層賎民、遊び人というより怠け者でしかない自分も、天体観測で宇宙の神秘に感じ入る高校生風な気持ちになった。ところが今日には青山ブックセンター(ABC)が破産とか。タイムリーに悲しいことだ。

ちいさいひとたちのことを、ふと考える。
もし未来、きみらが日本語を使えなく・使わなくなっていても、つまり、わたしたちが書きつけた術式が読めなくなっていても、それでも私はきみらのタマシイに咲く花の色は同じだと信じるぞ~。
(おおむかしの人、私たちには『わからなくなってしまった』言葉を書いた人たちも、そう思ってたのかもしれないね)

空のご機嫌・天の意志

 今日、というか日付的には昨日の昼間、大雷雨&雹。この地方この季節に雹など滅多にないことなので、びっくり。
 『参院選の日なのにな~』 と思ったが、雨が止んでから投票にでかけた。消去法で決めた候補に、ヒモもキックバックも無い、実に清き一票(笑)。
 夜は『非情城市』を見た。昨日は『ラストサムライ』を見た。偶然にもどちらも、「それまでつつがなくやってきた生き方・暮らしぶりが、体制の変化によって否定され弾圧され滅ぼされていく」 という感じだった。選挙もまた戦いなので、否定されて敗軍の将となった候補も多々いるわけだけれど、敗れた理由なんて時にはそれこそ、 『天の意志』 としか呼べないような曖昧なものだったりもする。
 時間というか民意というか竜というか、そういうぐるぐるしたものは、海の波のようだ。滅びない。そして、呑み込むものが何であってもさして頓着しない。いま自分が棹さしているヨノナカの流れはどこへ向かっているのかな、そんなことがふと不安になる、ヘンな天気だった。

毒太陽

夏は暑い。昔っからそうに決まっている。
だが最近の夏の陽射しは、どうも毒々しい。肌にキケンな感じがする。自分の気のせいかと思っていたが、友人たちに尋ねたところ同意を得た。やはり最近の直射日光は、人を灼いて遺伝子レベルで変異させようという悪意さえ感じられる。日光過敏症が増えてるらしいが、さもありなん。
また、人の7割は水分。海をたくわえて生きているようなものだ。でも最近の海は化学物質でいっぱい。そう考えていくと、『コドモたちが変わった』というのはアタリマエなのかもしれない。化学物質とりまくりの母胎から海を受け継いだわけだし。陽射しだって海だって、カラダの外でも内側でも、時代とともに変わっているのだ。
かといって、『キレイな海を取り戻せ』と叫ぶのも何だか。なにせ、世界のどこを見ても、キレイな海のそばに住んでる人はキタナイ海のそばに住んでる人に搾取されている現実。ムゴイ話だが。
自分の外側をむやみに変えれば自分の内側も変わってしまう。むやみにセカイを変えていくのは、常に『自分が大嫌い』な人たちだ。

悪魔のように細心に・天使のように大胆に

 お友達と行く予定のイベントに備えて、そこで講演するヒトの本を読むことにした。中条省平の「小説家になる!」の1と2だ。私の好きな作品が多々題材に採られているようなので読んだのだが、なかなか損はなかった。
 著者がいろいろと取り上げて解読してくれているので、『やっぱどんな分野でも、一流のヒトほど細かい点に心血を注いでいるもんだよなぁ』 と感心することしきり。また、自分と趣味が合う人が自分の好きな作品を解題しているので、かゆいところに手が届く的な快感も覚えた。
 で、そのなかで言及されている深沢七郎の「楢山節考」を読んでみた。同時に言及されてる同作者の「東京のプリンスたち」も。『このヒトは、私が芋虫でも天使でもまるで同じように接してくるだろうな』 と思わせられた。ひとつ間違えると(いや間違えてないのだが)マンガ界の鬼才・東陽片岡に通じる世界だ(笑)。
 精緻を尽くした文章もいいものだが、天衣無縫系の文章は、読んでいてほとんど生理的な快感だ。深沢七郎に限らず、思いつくまま挙げると、青山二郎とか、内田百聞とか、夏目漱石とか、あのあたりの文章はとても好きだ。
 良くも悪くもどうしようもない人たちで、それがそのままカッコよさになってるのだが、そこで『よせやい』と言わんばかりの開き直り、その深いところでのはにかみがまたいい。言えない言葉はたまらなく胸に響く、そんなまさに達人の域を、巧んだか巧まないんだか本人にも謎だろうところで筆跡にしているわけで。
 細かい点に心血を注ぐだけではクリアできないものも、絶対に、ある。だがその芯は、誰もが持っているようにも思える。持ってるということとそこに届くかどうかはまた別問題だろうが。

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