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2004年6月

痛いよ~

 暑くなってきたので、スニーカーばかりでは蒸れてしまうと思い、買ったばかりのサンダルでご町内買い物。たちまち足の甲の皮がすこし剥けた。なので、もすこしラクそうなサンダルを買って、今度は横浜駅近辺まで出かける。何時間か彷徨って帰ってくる頃には、2,3のマメまでできていた。
 かっこよく&キレイにキメるというのは、こういう肉体的負担も苦痛も意に介さない強い意志が必要なのだろう。一生ダサいままでいい、と泣きごとを言いたくもなる。
 自意識の保持というのは、どんな場面でも、痛み(と快感)を伴うものだ。傷つけたり傷つけられたりするうち、丈夫で均整の取れたスタイルになっていく。自意識の苦闘を放棄するのは『おっさん・おばさん化』につながりがちだが、いつまでも自意識を手放さない壮年も、強迫神経症的なものを感じる。
 結局、手放そうが掴み続けようが、そのヒトの成長サイクル(これは年齢と軌を一にはしない)に合っていればいいのだろうなぁ。勝手に何度でも『タマシイの思春期』を迎えるつもり一杯の自分。違う意味でイタさがスゴいのだが、気にしないことにする。

無言のことば

バレエを見に行った。生まれて初めてのことだが、何となく見てみたくなったのだ。
ルジマトフというダンサーがいて、十年以上まえから一度見てみたいと思っていたので、それが一番大きいかもしれない。もう40歳くらいだ。バレエダンサーは華の時期は短いらしい。だが、何につけ、地力がある存在は、世間的に華が無くなるとされる頃にその真価を発揮しだすものだ。
その人を除いての、肝心のバレエ自体は、日本の高温多湿な六月にバテていたのか、いまひとつキレがなく感じた。もちろん生まれて初めての鑑賞のうえダンスの知識はないので何ともいえないが。
ただ、ルジマトフのカラダが異様なことばをしゃべるのには驚かされた。手を変え品を変えの饒舌ではないが、ヒトが最初に言葉をしゃべった時はかくや、というような『衝動』があって、くるしいほど語ろうとしていた。踊ってないと死ぬんじゃないかとさえ思った。憑かれているという表現がピッタリだ。特に、いったん幕が下りたあと、ファンに応える時には、ごく平凡な人になっていたので、異様さがより感じられた。もちろん、褒めている。
バレエというと美しさがモノを言うものと思っていたが、やはりそれは世間に流布する誤解に流されていたようだ。ナメていた。甘かった。バレエは芸術。そして、芸術という芸術は、すべて存在が語るのだ。

うしなわれていくもの

最近、妙なこだわりが抜け、いろいろな本が読めるようになっている。今朝はあまりに暑苦しくベタベタしていてねつけなかったので、積ん読だったものを二冊よんだ。滝本竜彦の「ネガティブハッピー・チェンソーエッヂ」と神林長平の「七胴落とし」。どちらの作者も初読。で、どちらもたのしめた。
とうぜん、お話の色合いはかなり違う。だがタッチは違えど、どちらも、失われていくものをとても鮮やかに映していた。
失われていくものは、なんと楽しくバカくさく美しくせつなく、そしてなんと苦しく生々しく熱く酔わせるものなのか。
実は、寝付けない夜中じゅう、あるひとのことを考えていた。ここ数日、夜半にひたすら心に浮かぶ。ということは、何かあったのかもしれないし、想ってくれているのかもしれない。確かめようもないし、確かめてどうなるわけでもない。彼女に伝えられる言葉も思いも私は持っていない。タマシイはつながってても言葉がつながらないことは、とてつもなく悲しい。この悲しみがなくなった時、きっと完全に失ったことになるのだろうなぁ。
本を読んだあと、そんなことを思った。

さびしいの?

迷惑をかけてくる人というのはいるものだ。あるいは、因縁をつけてくる人もいる。
人と人とのあいだにフックがあるとすると、そのフックがガチッとハマってしまうと、ドロドロの感情劇に発展することもある。そーゆー経験はトシとともに少なくなるもんではある……はずだが、実はそんなもんでもないようだ。
好きな相手ならばグチもたのしいしドロドロもたのしい。だが、好きくない相手が、身におぼえもなくドロドロをふっかけてくる場合もありがちなわけで(そんな経験はある)。
今まで見てきた感じでは、そーゆーふっかけタイプなヒトは、ナニゲにさびしかったりするようだ。誰だってけっこう不愉快になるものだし、尻けっとばして追い出したい気分になったりもするが、 『うーん、このヒトのさびしさを招びだしてしまったんだなぁ』 と芯から諦めて受容できるキモチになると、なぜか勝手に去っていくことがおおい。
客観的にみてみると、小豆を洗う音を聞かせるだけの妖怪・小豆あらいのようで不思議だ。でもムリもないことだったりする。人はほとんどが妖怪の一種なんだろう。自分も含めて。

Four Seasons

年をとることは悪いことではない。だが、最近とみに、『年とともに、自省の精神は衰えがちになる』ことを感じている。
思春期の頃は、視野は狭く思いこみが激しくとも、その鋭い批判の目は自分自身にも向けることができた(と思う)。ところが、ほっとくと段々と、他人には厳しいままで自分には甘い、そんな在りようになってしまう。痛さに懲り懲りしたとも言えるが、要は、かったるくなるわけで。
その人によってさまざまな『かったるさの形』が、そのまま精神の形をつくってゆく。そしてその人固有の『成人病』を招いていく。どうやらそういうものらしい。人は少なからぬ局面において、慣性の奴隷だ。自分の精神についた、たぷたぷの贅肉に鬱な気分。
つまり人間いくつになろうが、また質の違うカッコ悪さに取り組まされることになるわけだと見えてきた。トホホさはずっと続くのだろうか、やはり。

あなたじゃないって

『1day1book』の管理人さまから、ご本をいただいた。
『熱い書評から親しむ感動の名著』という本だ。いろいろな本をいろいろな人が書評している。書評は大きな影響力をもっている。信頼できる人から勧められたのでなければ、帯・あとがき・まえがき・書評などを見て検討するもんだし。
ということで、よい本との出会いがあればと(積ん読が常態というのに)読みはじめたが、途中で拾い読みモードに切り替えた。そそられる書評もあったが、時々、『そこをどいてくれ、私は本を知りたいんだ、あなたのことを聞きたいわけじゃない』 とイライラしたので……トシだからガマンが効かなくなったせいもあるが。
『聞いて聞いて』 は疲れる。文章を読む醍醐味は 『聞かせて』 な気持ちをそそってもらえることなんだが。
と、盛り上がる合コンの隅っこで不興顔といった感じになったけれど、しかし大好きな人がそんな中で背筋をしゃっきりとさせて、いつもながらに惚れ惚れとするようなしっかりした笑顔を浮かべているのをみて、物凄く誇らしい気持ちになったのも事実だ。とくいとくい☆

美しい希望の季節

数日前になるけれど、山口椿の『逝く夏に』を読んだ。この作者は、凄まじく哀しく美しい(赤い血の脈打つ生を、星辰を砕いた螺鈿で、精緻かつ優美に象嵌したような、という感じ)ポルノグラフィアの名手だが、これは敗戦直後の少年たちを描いた、自伝的な作品だ。
練り物でできたような栄華とその雲散霧消。暴力と無法。ぽっかりと空いた穴。若い牡の悲痛なエネルギー。青い空。臭い汗と饐えた血の匂い。のうてんきなジャズ。ぶつけ合う肉体。タマシイの底に流れる、どこかから奏されるチェロの響き。
人はよく言うものだ、生活を変えたい、生き方を変えたい、と。だが選択の余地もなく変わってしまったら? そしてそれが多感な時期を直撃したら? こういう時を生きざるを得なかった人は多々居るわけだが、だが、見えなくなっている。傷ついたのなら晒してから死んでほしい、というのが後進としての願いだが、傷というのはそう簡単に済む問題でもない。人は生き物で、やわらかい。老木もその折れ口から生々しく枝を生やしたりするものだし。
なんだか、生きるエネルギーの美しさ、むごたらしさ、やるせなさに、かなり当てられる本だった。

愛しあってるかァーい?

若いおともだち(と勝手に思っている)のブログで紹介されていた「世界の中心で愛を叫んだけもの」を読んだ。タイトルは有名だし大昔に読んでいて当然のシロモノなのだが、実は初見だった。
『愛が過剰になると自他の区別がつかなくなる』 『愛が過剰になると憎悪にしかみえなくなる』 といった反転現象が浮き彫りになったような話だった。愛はすべてをひとつにするかもしれないが、物理空間ではふたつのものが全く同じ位置を占めることはない。そういうパラドックスのまえで、その彼岸を、ある人は科学の力や異次元の概念によって追いかけようとしたり、夢のアルカディアとして描いてみたり、むりに現実にひきずりおろそうとして他人を壊してしまったりする。神聖なんだかイカれてるんだかわからないクラッシュが起きてくる。
人は心と体を持っている。さらにいえば、心も精神とタマシイ(と仮に言ってみる。『息』としても可)でできている。なので、精神が笑い飛ばし嘲る相手を、タマシイは深く求めていたりすることもある。
ここ数日、ディスコミュニケーションというか、言葉がうまく届いているのかわからず往生する場面が多々ある。けれど、言葉にのっける思いを自分自身だってよくわかっていないんだろうと思い当たって、困ってしまった。
言葉に身悶えする時って、ある意味、さびしいのかもしれない。
ちなみに昨日は、さびしさがきっちりと重く凝って堂々とした形をとっている、滝口雅子の詩集を初読。
図抜けたさびしさは、きっと誰かを救う。そんな風に思えた。
……ちなみにタイトルは当然キヨシロー(笑)。

こどもたち

小学生が小学生を殺すという事件があった。夜中にネットでニュースを見ていて、どうやら掲示板のカキコが理由と知り、鬱になった。言葉のコミュニケーションはすさまじくムズカシイのだ。顔を突き合わせての会話でさえ、相手の真意が読めなかったりすることは多々ある。多少の絵文字やフォントの工夫で何とかなるってもんじゃない。
人間が獲得した能力のなかでも、いちばんスサマジイものだというのに、なぜに誰でも使えるなどと思うのか。
……『アメリ』という映画がある。好きというよりとても印象に残った映画だ。あれは、そういう『魔法』に関して『魔法少女』が抱く畏怖と憧れとときめき、そして彼女と最初の加護対象者&獲物である若い探求者との間での魔法の成就についてのお話だ、と私としては思っている(この作品のキモは、その『魔法』をとりあつかう時の、製作陣の手つきの謙虚さやはにかみを含んだ視線の愛おしさとも思う)。
そういう『魔法』もまた、あからさまなのに省みられない種類の奇跡のひとつだ。たいせつなことは何も隠されていない。ただ魔法使いの高慢は災厄を招く、それだけは人が人に伝えておくべきだろう。
閉じた世界のなかで絡み合ううち相手を殺してしまった、パラスとアテナみたいな魔法少女たち。
こんな不幸が繰り返されないように、と、月並みだけれど、心から思う。

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