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2004年5月

ぶりかえし

昨晩はよく行くチャットで十代の人々と話していた。いろいろな年代の人と話すのはたのしい。だが、暑さでバテていたせいか、若さ特有のエネルギーに煽られたせいか、かなり感情的に引きずり込まれるというか同一化してしまって、若くアイタタタな日々がまざまざとフラッシュバックして、すこし情緒不安定になった。
おかげで今日はよく行く散歩道の川辺で、しばしぼーっとしてしまった。時間というのは落葉のようなもので、とほほな記憶をイロイロと包み隠してくれる。だがちょっとしたはずみで、カサブタが剥がれるように、アイタタタが胸によみがえってしまうこともあるわけで。かといって、よみがえっても何をどうできるわけでもない。それはイヤというほどわかっているし、むやみに感傷的になるつもりもない。
ただ、風に飛ばされた落葉の下に、まだ生きているような親しい死顔をみて、『ああ、まだ成仏してないんかい』 としみじみ感じてしまったわけで。その懐かしい死顔をまた落葉にうずめて、ぼーっと座っていたのだ。それがどんな顔をしているのかうまく説明できない。誰でも(自分の枯葉に埋まってる分なら)その死に顔については知っているだろし。

かんじる?

今日は友人のところに遊びに行き、最近の面白マンガを少し教えてもらった。マンガは物心つくかつかないかのうちから読みふけってきたけれど、最近は情報収集力が落ちたので追いかけきれない。
そう考えると今の若者は(というほどのトシでもないが)よくもまぁ、これだけ大量の情報の中から自分の好みを抜き取ってこられるものだ。私などはマンガ専門店などに行くと思わず立ちすくんでしまう。マンガに限らず、本も映画も絵も音楽も、ともかくたくさんある。途方にくれる。門外漢としてはつい、ベストセラーで事足れりにしたくなる。
人と人の出会いもそうで、こうネットが発達して、世界のどこの人とでもたくさん知り合えるはずだ。だが実際にはそうでもない。少なくとも私なぞは。ネトゲの数々に参加して気軽に出会いを増やしている友人の話を、ほぅほぅと羨んで聞くばかりだったりする。
ヒトであろうがヒトのつくったものであろうが、いろんなクリエイションに出会いたいものだとは思うのだけど、結局は、そのヒト固有の触覚で感じ取って進んだ先で結果的に出会ってしまうものでしかないのかもしれない。星と星の軌道が一瞬交錯するように、ある意味で定められたものなのかもしれない。さてさて何にぶつかるものなのやら。

そうだったのか!

先ほどまで、雨を眺めつつドトールでのほほんとしていた。シゴトウィークというのになぜかお絵かきの本を買ってしまっていたりするあたり、微妙にマヌケだが。本屋でいろいろと画集など立ち見して、ひさびさに絵画の素晴らしさを感じ(しょせん印刷は印刷だけど)、ややシアワセな気分だった。
ちなみに美少女CGの描き方!とかいった本なども立ち読みしたのだが、あまりの道の険しさに_| ̄|○。
それにしても最近の若者は絵が巧いなぁと感心させられた。アニメ絵というのであらふか……、何かみな似通って見えるのだが、巧いのは事実だ。……素晴らしい!とは思わないが(ここに訪れる人で巧いと素晴らしいの違いがわからない人はおるまい)、まぁ、描くほうだって最初からそんな評価は望んではいないだろう。
(あ) そのとき、私は、気づいてしまった。
あの、どれもこれも似通っていて、スタイルを踏襲してある程度のラインさえクリアすれば「絵が上手なんだね~」と言ってもらえる、コミュニケーションの入り口になる、という世界は、アニメ絵以外に、もうひとつある。
絵手紙。
アレだ。つまり、その……、そっくり。
非難するつもりはないし、世の趨勢はそういうものだ。
やはり、この国では西洋風な『芸術家』は滅多に成立しないような気はする。そもそも日本の『芸術家』は『芸能者』。身内ウケからやがて広くウケていく、そんなお調子者な展開になりがちなもんだろう。
でも個人的には、タマシイの建築みたいな絵にどーんと連れ去られるのが絵を見る醍醐味なのだが。皆様どんなもんなんだろ?

薔薇は宇宙だよ

薔薇ジュースを1ダースたのんだので、すこし幸せな気分の日に飲んでいる。強烈な薔薇の匂いがするうえ甘いので、最初は「うぷぷぷぷ」ものだが、慣れると美味い。まとめ買いすれば安い。美容や健康によいそうだが、たとえそんな効用がなかったとしても、気持ちによい感じがするのは事実。疲れているときなどにはよいかもしれない。
近所をてくてく歩くと、あちこちで薔薇が咲いてたりする。実にすばらしい。歩いてはたちどまりたちどまり、薔薇の香りをかいで幸福にひたっているが、傍目で見ると小学生なみの挙動不審だろうなぁ。
薔薇にも実にいろいろな品種があるものだが、『昔の園芸家は、こーゆー品種を見ることができなかったわけだなぁ』などと想うと、しみじみとさせられる。とはいえ自分も将来でてくる品種を見ることはできないわけだが。咲き乱れる薔薇は天国感(?)を誘うので、つい美しい薔薇たちが、今の薔薇愛好家から昔の薔薇愛好家への手向け兼ことほぎのようにもみえてくる。いや、たとえばエンジニアリングだとか何だとか、他の方面でも同じことはいえるのだが……、ちょっと違う気もしないでもない。
人はふくらんだりしぼんだりしながら毎日を生きるものだが、たまには美しい花をただじっと見るのも、とてもいいものではなかろうか。胸がおおきくふくらむ、とおもう。

本は本をよぶ

リンクさせていただいている「1day1book」で書かれていた「チボー家の人々」が気になったのだが、図書館で見た感じ、長そうなので挫折していた。それと関係なくマンガの紹介本を借りたら、高野文子が「黄色い本」というタイトルで「チボー家の人々」がでてくるマンガを描いていると知り、読んでみたいと思った。と、その本を返却しにいったら、図書館の棚にそのマンガがやってきていた。読んだ。
本の中の登場人物、つまり架空の存在でしかないはずのキャラクターと、たしかに共に生き、呼吸し、心を通わすことは、できる。そう断言できる日々は、たしかにあった。
今は、その彼らの呼吸が、自分が吹き込んだ息(pneuma)だということを知っている。キャラクターの現存性(?)は、作者と読者の愛の結晶のようなシロモノ。もちろん魔法のシクミがわかっても、その奇跡の肌触りは、いまも胸にある。
すばらしい魔法の季節を思い返させる、よい目線のまんがだった。とてもうれしい。

変わるものと変わらぬもの

何かやっていると時が経つのが早いというが、何もしていなくても早い時は早い。
何かやった一日は、あとから振り返ると長く感じる。おそらく画像圧縮とかと同じ要領で、何もデータが入ってない日というのは記憶のなかで省略・削除されてしまうのだろう。最近、何かやったな~と感じたのは絵を描いたことくらい。
そこでふと思い当たったのだが、自分が何か創るときというのは、自然発生的に歌い出してしまうようなノリか、自分が好きなヒトと楽しみを共有するためだけだった。つまり、鼻歌的・身内ノリ的であって、“創作の魔に憑かれて”とかいったもんではないし、“生きるためにそれしかなかった”というもんでもない。
まぁ上手くなったりはしないのも当然だよな、と自分で納得したりもした。で同時に、そういう心性は、愛嬌ふりまいて家族の調停役を果たす末っ子ゆえに強化されたのだな、とも理解したりした。
『そうか、好きなヒトの笑顔を見るのがそんなに嬉しかったのか。なんかせつなかったんだな、オマエは』と、かつての自分を思いやってみたり。
年をとっても基本構えが大して変わっていないのは、無為に日々を過ごしているからかもしれないけれど、そうした基本構えに気付くには、無為な日々もおおいに必要だったりするパラドックス。

視聴ばかりを

 何もする気がおきず、ここしばらくビデオやDVDを見て過ごしている。この二週間ほどで見たものを書き留めておこう。
「キルビルVol.1」、「アバウトシュミット」、「インタビューウィズバンパイア」、「ソラリス(リメイク)」、「プラトーン」、「ヘドウィグアンドアングリーインチ」、「バーバレラ」、「英雄」、「時計仕掛けのオレンジ」、「あずみ」、「ブルースオールマイティー」、「ゲロッパ」、「フルメタルジャケット」、「ボウリングフォーコロンバイン」……他にもあった気がするけど思い出せない。再視聴のものや家人の好みや理由あって見たものもあるが、基本は手当たり次第だ。エンターテインメントでもゲージュツでも何でもいい。要はものがたりなんだから。
 いわゆる『不朽の名作』というやつは、一度見てみようと思いつつ意外と見る気が起きないものだ。そのうちに色褪せ、名前ばかり売れてもいわゆる研究者しか見ない何かになってゆく。世界名作文学全集とやらが辿る運命と同じだ。映画だってそうだし、マンガだってそうだろう。
 レンタル屋で背中がすっかり色褪せたビデオジャケットを見ていると、そこはかとなく切ない。語られなくなった物語、忘れられていく物語。決して質的に劣っているわけでもなくても、そうなったりする。出会うことの幸福が増すたび、出会えなかった無念もまた、胸のなかに降り積もる。

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