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2004年4月

続けること

タブレットを入手したので、じつにひさびさに絵を描いている。ちゃんとカウントすると6~7年ぶりなのだけれど、年とともに月日が早くなっているので、実感としては4年かそこらな気がする。
もともと上手くないので、描いてみてもヘタになった感じもしない。もちろん上達した感じはない。それでもソフトを操作しているとやはり、たゆみなく続けていたらよかったなぁ、と思う。
人間、繰り返すうちに動作のムダがなくなっていく。ムダな動作はムダな思考を呼び込むし、その分だけ、つくりかけのもののビジョンがブレる。ムダは必要というけれど、単純にムダな妨害的なムダと、あそびとなる創造的なムダは、やっぱり違う。
ひとが仕事を繰り返すのは、『あそび』の余地を生むためかもしれない。あそびはクリエイション、だからたのしい。意志決定権者というのは、ある意味で『たくさんあそべる』人でもある。
やはり何でも、たゆみなく続ければ続けるほど、あそべるようになってくるのだろう。すぐにやめてしまいがちな自分にトホホ感を抱いてしまうが、まぁ、かまわないかとも思った。人間、渡り鳥やら鮭やらじゃないけど、本当にあそびたいグラウンドには、気がつけば何度でも帰っていってるものだし。

カードと賭博

ここのサイト名にかこつけるわけでもないが、タロットやトランプ、また花札やらのカード類が大好きだ。
手触りがいいカードは気持ちいいし、見ていてもエキゾチックだし、絵札系のものだと、綴じられる前の本、本の原型という感じもして興味深い。手でさわれるものは、何気なく創造性を刺激するものだ。
ここに来てくれる人には、酔狂かつ趣味がよい人が多いとおもうので、人から教えてもらったサイトで、イタリアのタロットやタロッコを現地から売ってくれるというサイトをご紹介→月の船
このメネガッジさんなる人の手によるタロットも何種か持っていた(いる)が、とても美しくて気に入っている。紙質や印刷も実にすてきだ。ちなみにイタリア産タロットは四隅の角が立っているのがほとんど、つまりコレクション向きだがそれにふさわしい美しさだったりする。
その点、カジノ向けのトランプはもちろん、花札や株札などの『実用カード』は、一種インダストリアルデザイン的な美しさだ。もう少しバリエーションがあってもいい気はするが、鉄火場では飾りなぞ不要なのも事実だろう。
ホントの賭博は優雅なんかではなくごくソリッドなものだろう。だからこそ、ことさらに優雅さを強調して人を呼ぶわけで。
JRAやロトくじなどは、CMで優雅さや娯楽を強調するのも結構だが、券面を美しくするほうが先だろう。ホントのホンネは札に出るものだし、ね。

食生活とエログロ

ここ数日、どうしてかわからないが、暴力・エロ・グロのオンパレードのような映画や小説やマンガに縁がある。というか気づくとそういうものに手が伸びている。家人にたずねたところ、同じような傾向だという。そこでは、「ここ数日、忙しいからといって、ちゃんとした食事をしてないから」という結論が出た。
人は食事のとき、物質以上に印象を補給している。触覚や何やまで全身の感覚を遮断すると三日くらいでおかしくなるらしいが……人は物質だけではマトモに生きられない。絶食などは空腹よりもまず退屈で駄目になることが多いという。
マトモな食事は繊細で複雑な印象に富んでいるものだが、いわば印象をデフォルメしたジャンクフードやコンビニ弁当は、きっと『印象のビタミンやミネラル』に欠けているのだ。それで無意識のうちに、別系統から印象を摂取すべく、刺激の強いモノを視聴しがちになるのではなかろうか。
青少年の心身に悪影響を及ぼすクリエイションが氾濫していると目くじらを立てる親御さんも多いようだが、マトモな印象を十二分に摂取させておけば、あまりそういう『偏った食事』はカラダが受け付けないようになる。
食生活は、その人間の思考能力が健全に機能するかを計るうえで、一種のモノサシにもなるのではなかろうか。……いわゆる栄養はオール点滴で済ませて、印象はすべてクリエイションでまかないたいというタイプの人間が言うセリフではないかもしれないけれど。

選ぶこと、選ばないこと

最近、近所の本屋が閉店した。何の特色もない小規模チェーンの支店だし、私自身その本屋で買うことは年に1,2回だったので、どうということもないけれど、微妙にさびしい。
ただ在るだけの本屋はもう存続するのがナンギだし、あとはBookOffが代わりをつとめることになるのだろう。特色を出しまくった本屋は、昔は好きだったが今はウザい気がする。
話は微妙に飛ぶが。今、コンビニが町のキーステーションになっているのは、客を選ばないからではなかろうか。
マニュアル化され画一化されたコンビニが積極的に選択されるのは、『選ぶこと』をめぐって傷ついたり傷つけられたりした人間が、定型的な選択肢あるいは記号を積極的に消費することで、物凄く後ろ向きに復讐しているさまのようにも見える。現在ウケているジュニアノベルやアニメが異様なほど似通って見えることと、そしてそのような識者サマの指摘が常に(半ば意図的に)無視され続けていることに、どこか通底するものを感じる。
ヨノナカはいつも、否定されてきたものが否定してきたものを滅ぼすので、今後しばらくは『コピーのコピー』や『二次創作とパロディ』や『選択を放棄した結果のベストセラー』やら『大規模資本による大量生産物』が市場のすべてになっていくのだろう。いちど黄表紙本まで戻ってみるのも、一興かもしれない。

さくらと常若

ひろってきた桜の枝はぶじ開花し、おまけに雨が降る前にはいちいち部屋に取りこんでいるので、近くの公園の桜が散ってしまっても、花びら一枚かけることなく咲いている。
しかし、桜を用いた商品とか、お花見とかが、以前よりも隆盛な気がする。
桜についてのイメージだけれど、「ぱっと散る」はかなさもさることながら、気象庁の予想のせいか知らないが「桜前線」ということばがすっかり定着したように、「やってくるもの」、つまり「訪うもの」のイメージもあるのだろうなぁ。ある意味、思春期のいわゆる目覚めのようなもんで、「ダイモーン」同様、抗えないものというか。
人は退屈している。停滞して、先が読めて、手が届かない、そんな思いばかり抱いて生きていると、未知なる歓喜とおそれ(それは若さゆえの無知と未熟をも想わせる)を希求するようになるものだ。それでみんな、花見だのテーマパークだのに集っているのだろうかとも思ったりする。老いたる者の醜悪と悲哀、そしてやるせなさを感じつつ、花を眺める春。

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