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2004年2月

体調と天気

ここ数日、体調を崩していて、なのにやらねばならないことが色々とあって、ちょっと面倒だった。けれども、天気がいいのは何よりの救い。
人間、気持ちや体調が悲惨になると、何だか閉じてしまう。努めて開こうとするとかえってこじらせたりする。周囲が開かせようとして、大変にこじれてしまったりもする。
その点、自然というのは何だかうまいこと開いてくれる。その人が閉じているなりに、適当に開けさせる。「これくらい開くのがいわゆる“健全”の平均値」などと近視眼的なモノサシを持ち出さずに、その人なりに開かせる、というあたりが実に絶妙だ。
そういう開閉をからだで習得している人が、いわゆる健康な人だ。しかし、開閉がうまく行かないときには、やはり何ぞ助けはいる。
ということで、ごくわずかな間の日向ぼっこは、沁みこむように、よかった。花粉症気味なのだけど、それにまさる良さがあった。また春がきた、ひらく季節なんだなぁ、などと思いつつ、まぶたにあたたかい陽射しを感じていた。
P.S. 世界の広さを感じさせる情報に感謝です>江口さま  ……このサイトは本体よりコメントとかリンクのほうに真価があるかも>通りかかった皆さま

散乱する時間

ほとんどテレビも見ず、新聞も取らず、雑誌も読まず、ネットだけでくらしているような身だと、ちょっと困ることがある。世間共通の話題……特に興味のない分野だと……まるで無知になってしまう。最近、骨盤の歪みを取るだの顔の歪みを取るだのが話題になっているけれど、そういう意味では興味の歪みがますます激しくなるような状態だ。
そうした“同時性”から外れていくので、妙なこともいろいろ起きる。Gnutellaなど使っていた頃には大昔に流行った外国の曲に今さらハマったりした。しかも体系的に聴けるわけでもないので、虫食い・雑然とした状態の知識ばかりが野積みのように増えていく。また、あまりオンラインでは物語を読むシュミはないのだけれど、それでもグーグルで偶然に見かけたこの作品には大感服、激賞のファンレターを送ろうとして……サイトで作者を知り、“さもありなん”と苦笑した。時間のない世界では、こういうことだって起きてしまう。
ネット上に散乱する記事を時系列で統括する方法は、今のところ、ない。もちろんやがては(XMLに限らず)共通フォーマットが推奨され、“人類が共有する知のデータベース”とやらなっていくに決まっている。そのほうが“歪み”も“時系列のズレ”も生じず、健全ではあると思う。けれど、空き地も原っぱもない、七色の遊具だけがある“健全な遊び場”がどんなものか、高度成長期以降生まれの人間はよく知っているのではないだろうか。
いまのところ、ネットには空き地も原っぱも廃墟も残っている。時間の外で、会えないはずの人たちに出会うことも、またネットのたのしみなのかも知れない。
(言わずもがなですが今いちど) 私は、会えてうれしいです>駄文を目にしている皆さま

通信とモスラ繭

とにもかくにも、コンピュータの世界は変化が早いし、通信も様変わりした。それでも何というのだろうか、初めてのこんぴうたの最初の起動時の「ひゃ~」や、遠い場所にいる今まで知らなかった誰かとSYNC状態になった時の「ひゃ~」は、未だに特別なものがある。
大昔、NTTのショールームで、プッシュホンで生まれてからの日にちを計算!というサービスをやっていた。そしてそれが大好きだった。大型計算機!とか、いかにも無機質な声!とか、子供にとっては実際、アカシックレコードへのアクセスか何かの如くに神秘的だった……どう考えても違うのだけれど(笑)。
24時間、地球の上で、人と人やら人とコンピュータやらコンピュータとコンピュータやらの通信が行われ、データなる実体のないものが処理され、そこにさらに、意味なる実体のないものが投射・再投射されているわけだ。何だか、地球が繭みたいなものにくるまれていく感じがする。そして自分も、今日もイゴイゴと、巨大なるデータプロセッシング機構の一員として、繭つくりに貢献していたりするのかもしれない。いや……モスラが出てくるとは思わないけれど(笑)。
P.S. コメント通知メールを設定しておらず、数日経ってからコメントがあることに気づき、あわてたけれどレスの付け方がわからず、この場でお礼を言うべく、二時間かけて文章を推敲して、「いざ!」というところで違うボタンを押して、すべてを無にし、ぐったりしたところでメゲずに書き込んだはいいが、次の記事をアップした時に設定のせいかその文章がみな消えてしまい、泣きそうな顔でこうやってさらに書き込んでいる自分にぐったり。
……何はともあれ、コメントくださって本当にありがとうございました。また気が向いたら見てやってください。>shuiさま

淋しいかな?

この間、夜更けに好きな音楽を聴いて上機嫌になっているときに、ふっと改めて気づいた。これを歌っている人はもう生きていないのだ、と。
部屋を見回せば、いろいろ本はあるが、その作者たちももうこの世にはいない。自分は死者の記憶に囲まれているのだ。もちろん本や音楽の作者がまだ存命中としても、やはりその人々にとっては作品は“過去”でしかないのは間違いない。
そう考えると、とても寒々しい気持ちにも一瞬なったけれど、作品に触れている間は、どうしても相手がもうこの世のどこにもいない人だとは思えないのも、事実。
要するに、これは星と同じような原理なのだと思うことにした。自分のもとに届く光が実は何千年も昔に放たれた輝きだとしても、星の光は常に“いま”として感じられる。
さまざまな星の光に囲まれて、なんか淋しいような、心はげまされるような思いになりつつ、何とか一日一日を超えていく、自分のささやかなる現在。

何も隠されていない

何ともあやしげなタイトルなので、付記が必要かもしれない。オカルトというのは『隠されたもの』という意味だ。けれど、不思議なことというのは『何も隠されてはいない』のではなかろうか。
同じ物語を読んでいて、ある時ハッと違う意味に気づく。同じ人に会っていて、ある時ハッと違う顔に気づく。淡々とした繰り返しのなかで、ぱっと火花のように認識が輝く。生命はそういうケッタイな“ジャンプ”をやらかす。
人は、他の個体から生まれて、ちゃんと例外なく個体として死ぬ。そういうことがどう見積もっても何万年か続いているらしい。そこには神の意志がどうちゃらとかいう前に、なんだかうまく組まれたプログラムを見た時のような、単純な感動をおぼえてしまう。
好きな風景のなかで地面にぺた、と素足をつけた時、自分の胸に湧いてくるものが、とてつもなく旧くてみんなが持っているものだ、と意味もなく確信している。そして、こういう『意味のない確信』がオカルト的と呼ばれてしまうことも、知っている。 そういう文脈で、自分はオカルト的な感性、それも旧い感性を持っているんだな、と考えている。いわゆるオカルトを期待してるヒトにはスマソ。

花粉の季節

昔はそうでもなかったのだけれど、いまやリッパな花粉症になってしまったようだ。なんでも、レセプタの容量を超えてしまうと、バケツがあふれる要領で、ある日とーとつにアレルギーが発症してしまうとか。うーん。
かんがえてみると。時間が経つうち、好きな人がキライになったり、キライな人が好きになったりするのも、そんなものかもしれない。好きの裏側でイヤげさが積もり、嫌いの裏側でトキメキが積もる。
本当のところ、自分のこころのなかで何が起きているのか起きつつあるのか、完全にはわからないものかもしれない。何に関しても時はある。つまんないキッカケで、自分が息している世界が変わっても、あまり驚くことはないのかもなぁ~。

音楽・そして過ぎ去る

音楽、それも昔に聴いていた音楽をふとした拍子に耳にして、何ともいえない気持ちになることがある。
心が別の空間、どこにも無い空間にとばされる。
――いや、確かにあるのだ、無い空間なんかではない。在る空間だ。
そう主張したいのだが、結局、かたちにしない限りは他人に伝えようもない。
つまりは、その音楽を聴いて胸に打ち寄せた気持ちや、すっとばされた先の空間というのは、自分が死んでしまったらキレイに失われてしまうということなのだ。
個体の殻のなかの波のうねりなんぞというものは、いろいろな意味でどうでもいいものなのだし、まぁ失われるのは妥当なことだ。
――けれども、やはりそれは許し難いことのようにも思えてくる。
どうなのだろう、かたちにならなかった感情、伝えられなかった言葉、語られなかった物語、ビットバケツに捨てられたそれらすべては、めぐりめぐって、いつか何かを生み出すもとになるのだろうか。
時間への執着と放棄が、あるいは自意識への執着と放棄が、“人間”という物語の源なのかもしれない。それにしても。人間ならざるものになることに、それほどに意味はあるのだろうか?

厨坊の如く、いきなり飛び込む

今日は立春。
いままで使っていた自サイトの日記が、なんとパスワードがさっぱりわからなくなってしまった。
暗号化したパスワードだし、いちいち鯖に入って漁らないと、見当さえつかない。
そこで衝動的に、ここを使うことにした。

衝動的に、といったが、前段階がある。
ネットでの古い間柄のひと(うーん、うまく表現できない)が、使っているのを発見して「おお、便利そうだ……」と思ってはいたが、ツールをイロイロと覚えたりするのは面倒だし、このココログの「人と人とをつなぐ」というウリが、あまりに人付き合いがヘタな自分には恐怖に思えて、そのまま座視していたわけだ。

でもまぁ、人生は過ぎ去ってゆく。
何も知らなくても何かやってみるのもいいだろう。子供などはそんなふうにして生きている。
(もちろん手ひどい恥ずかしさや恐怖や心が跳ね回るような歓びといった、しんどいほどの振幅を代償にして、なんだけど)

とりあえず、まずは投稿が必要だ。
ということで、投稿。えい。

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