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三年ぶりに投稿……もうすぐ平成もおわりだね

なかなか人は死なないものだ。ちゃんと生きている……どころか、じりじりと社会参加も復活していたりする。自分に感心。

ココログの管理ページが変わるとかお知らせがあったり、過去記事のDLができなかったり、気がかりにはなっていたのだけど。

ある事柄について、過去にブログに書いたことがあったろうか……と検索したついでに、未来の自分のための備忘録。

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金魚たちも少々は代替わりしつつ、2019年現在、江戸錦、丹頂、蘭鋳、が生きている。

水槽も買ってから十年近いから(水止めの)シリコンが劣化しているだろうなぁと心配だけど、いまは保っているから問題なし……としておこう。

明日はエイプリールフールなんだが、新元号も発表されるとか。

「和を昭けくする」昭和は戦争の時代、「平らかに成る」平成は格差の時代。さてお次は? 物議を醸しそうな「安保」とか、どうよ。

またヅカ行ったよ

二月の終わりに、お父上の看護にお疲れ気味な旧き強敵(とも)を誘って、雪組の「ルパン三世」を見てきますた。
人気公演なのだけどチケットが取れてよかった。宝塚でルパンってことでどんなもんだろうかと見てきたけど、コメディっぽく楽しく笑える作りになっていて、肩が凝らずに見れました。しかしトップさんは、ルックスはとても美形なのだが、歌がちょっと……聞いてて不安になるレベルだった……。曲自体は好きだったのだが。
レビューもあったけど、強敵(とも)いわく、「ちょっと長い」とのこと。まぁ確かに、レビューってかなりデキが良くないと一時間あきずに見るのはむずかしいよね。
もう今年はぜひ見たいという演目もないのだけど、目に華やかな娯楽も悪くはないものです。しかし盛り上がらない元気のなさは、こりゃもうビョーキのせいばかりでもなく、トシのせいもあるんかね。
生きることが薄墨色ににじんでいくような感覚。これがあと何十年つづくのやら。できれば短いに越したことはないなぁ。

宝塚宙組「グスタフIII世」みてきたよ

もう一週間以上前になるけど、宙組の「グスタフIII世」「PHOENIX!」みてきました。
いや、ごひいきのテルさんこと凰稀かなめさんが今公演で宝塚を退団してしまうというし、感動マヒな状態がずーっと続いているし、ともかく家から出かけられないし……ということで、ショック療法的に出かけることにしたわけで。
期日が迫ってるチケットで、A席をB席の値段で譲ってくれるというのがあったので、入手したはいいけど、当日になるまで、行けるかどうか内心はけっこう不安で、会う人ごとに「こんどタカラヅカ見に行くんですよ」とかアピールして、自分を追い込んでみた。
当日は有楽町でいつもと違う改札から出たので、一瞬かるくパニくりそうになったけど、自分をなだめて何とか道をおもいだし、順調に道をたどった。

感想といえばやはり「凰稀かなめの足の長さ!顔の小ささ!」とかいうことになってしまうのかもしれない。この人は、役者としても、もともとの色がないタイプに思える。モデル的というべきか、美しいコスプレ存在というべきか。
娘役とのカプリングで売るタイプではなかったし(不仲説もあったくらい)、男役のセクシーさがウリというわけではない。つーか、この人は女役をさせても「オカマ」にはならない。


そもそも私がはじめて見た銀英伝は「ヅカだけどBLノリ」のような倒錯感がいいぞもっとやれな舞台だったので、なんかタカラヅカの王道とはちょっと違ったノリのトップさんだったのかもしらん。でも眼福な人だったので、生で見られたのはよかったと思う。

舞台感想としては、筋書きや人物描写などあまり心に残るものでもなかったし、そもそも感情がそんなに動かなくなっているので、「それほどでも……」という一言になってしまうかもしらん。
とはいえ、華麗な雰囲気はたのしませてもらえたし、「お疲れ様でした、ありがとう」と言いたい気持ちにはなれた。

それにしても。銀英伝でファンになった蓮水ゆうやや悠未ひろがすでに卒業後で、ヤン役の緒月遠麻も今公演で卒業なので、なんか「おおぅ!」と目をひく人はいなかったのがざんねん。次期トップの朝夏まなとは魅力的ではあるけど、甘い雰囲気が特徴なので、きっと組カラーもかなり変わっていくのであろ。

時間を巻き戻せるならば、大空祐飛がトップで凰稀かなめが二番手の時代の宙組の舞台をいろいろ見たかったなぁ。女の園にしてクールイケメン揃いという倒錯の頂点ではないだろうかと。

雪組「ルパン三世」も見に行きたいのだけど、チケット取れねぇ……。ご予算が二倍か三倍はないと見られそうもない……。指くわえて見のがしであろうなぁ。うう。

ホイッスラー展をみてきたよ

事務手続きのため、朝っぱらから隣の区まで出かけるハメになった。
しかし出かけたら、これ幸いと動くようにしなければいけない。横浜の健康促進政策である「よこはまウォーキングポイント」なるものに、つい先週くらいから参加しはじめ、それで万歩計を身につけているのだが、なんと一日400歩とかすごい数字になっている(平均的な専業主婦で一日2000歩は行くそうだ)。

「動けるときにむりやり動こう」。そう思って手帳持ち仲間のSさんを誘い出し、美術館に行くことに。用事を終えた昼ごろに待ち合わせ、馬車道で和・洋・タイ料理のバイキングランチを食べた。意地汚く必死に食べたので、くるしくなってしまった。そこで腹ごなしに横浜美術館まで歩いたのだけど、ついでに、昨年の秋だかにオープンしたはずの商業施設「MARK IS」を初めて目にした。浦島太郎のような状態。


ホイッスラー展は、チラシなどを見ていると油彩がばんばんありそうだが、実際は版画とか水彩とかの小品が半分をしめていた。ここでも貧乏根性を発揮して一点一点見ていたが、かなり消耗してしまった。見るということも、けっこう精神力を使っているのだな、と改めて思った。

Sさんはさらに状態がよろしくないのでさっさと見終わったようだが、待ち合わせ場所を決めているのに、美術館の中というのに、人のケータイを鳴らしてくるのはやめてほしいものだ(それも二回も)。係員さんが飛んできて注意を受けたが、当然だろうに。・・・あ、ケータイ持ったといっても、人様から不要になったというプリペイドのガラケーをご恵投いただいたものです、なので受信専用で普段は完全に不使用。

感情が平板化しているというか、感動のリアリティがこなくなるという、ビョーキの陰性症状は、やはり回復していない感じ。それほど好みじゃないとか色々あるのかもしらんが、いろいろと絵を見てもなんかピンとこなくて、なんとか感動しようとして凝視しているうちに、アタマがぐるぐるしてくるとか、えらく疲労感がにじみ出てくるというか。

以前には、食べても美味しいと感じないという状態だったわけで。まだ食べ物が美味しいと感じられるようになっただけでも、マシになっているのだろう。

とはいえ、絵を見たりしても、胸に来るものがなくなってしまうというのは、なんというか、命がすごくうすくなってしまうことで。リハビリと回復度合いの確認を兼ねて、週末にはヅカを見に行く予定。すごくダルいんだけど、うごかないと……。


ベイマックスをみてきた

ともかく、半径50メートルより移動するのは週に一度、さらなる距離を移動するのは月に一度、なにか楽しみのために動くのは年に一度レベルの、うごけない人になってしまった。

これではいけない、と、思い立ってから一ヶ月半以上してからようやく、映画を見ることに成功した。
映画はディズニーの「ベイマックス」。
というか、元ネタはマーベルコミックスなのだそうで、それで主な見せ場は八面六臂なアクションになっている。できれば、アクションシーンのシークエンスを、それぞれ5秒づつでも削って、ストーリーの整合性や、人物の深掘りに使ってもらえたら、私的にはもっとよかったようにも思えた。
それでも、ディズニーらしいハートウォームな雰囲気が色濃くて、勇ましいアクションだけではないあたり、小中学生の男の子なんかが見るには、とてもよいと思われる。

映画のカラーは、東洋人の主人公、理工系のギークたち、多国籍な西海岸っぽさ、単純な勧善懲悪の否定などなど、アメリカのメインカルチャーとは趣きを異にしているけど、明るいテクノロジーへの信頼や楽しいギミック、肉親の愛情や仲間との友情……、端的にいえば、「成長途上の男の子に向けられる、よき大人たちと社会からのハグ感」があって、見ていて温かな気持ちになれる。

生きていく過程で、愛する人の死をはじめとしたこの世の残酷に打ちのめされることはある。そこから立ち上がるには、心が育っていく過程で「性的・暴力的な搾取を伴わない、安全と安心が担保された、温かな抱擁」をたっぶり受けてきていることが必要だと思う。世界を信頼する力や未来を信頼する力は、ほんのささやかであっても繰り返し与えられるひとの温もりが、育ててくれるものだろう。
日本の子供向きアニメに……あるいは日本の社会に足りないのは、この「こどもへのハグ感」かもしれない。

ベイマックスが、肉親が作ったケアロボット(性や暴力を排除した家族愛)というのは、示唆的だったなぁ。「ただ無条件に抱きしめてくれる存在」は、こどもが育つ上では大切な存在だよね。いや、こどもに限らず、大人にもとても大切なことなのだし。ベイマックスが実用化したら、きっと欲しくなると思うなぁ。

しかしベイマックスの可愛らしさや「一家に一台」感に、ふと手塚の「火の鳥」のロビタを連想したのは私だけなのだろうか。日本人、ほんとにロボット好きだもんね☆

きんぎょズ☆になる(安らかに)

今月は、一部が崩れた部屋の壁を補修したり、こわれてしまった二十年以上酷使したコンロを買い換えたりと、家庭内整備が多く、調子がよくないなかダラダラとお手伝いしていた。

おかげで水換えなどをダラダラさぼっていて、それゆえに、四匹いるきんぎょのうち、二匹がたてつづけにお星様になってしまった。
からだの弱い蝶尾がまっさきにやられて、「なんか色が褪せてきたなぁ」とかいってるうちに病気とわかり、塩浴や薬浴などもさせたが今いち。

なんて言っているうちに、いちばん丈夫そうな琉金が、尾がボロボロと腐り、うろこが剥げてきて、一週間と持たずにお亡くなりになった。泡くって水換えなどをしてたら、その日のうちに蝶尾もお亡くなりになった。

のこる二匹のうち一匹も、うろこの一部が剥げているので、もしかしたら全滅してしまうかもしれない。
水槽の中の生態バランスは、いちど崩れ始めると何とかリカバリするまで時間がかかるようだ。

細菌性の病気は、ほとんどがマンネリ化した管理のせいで起きてくるので、金魚たちにとってはどうにもこうにも災難だったとしかいえない。体つき的にそう大きくはならなさそうな個体だったけれど、たいせつに育てれば、四、五年は平気で生きられるのに、たった半年や一年そこらで死なせてしまった。

きんぎょを飼い始めた頃は自分も調子よく、きんぎょたちも良い個体だったので、水槽内でも繁殖をするなど、元気にいきいきと暮らしていたのだが。最初に飼ったきんぎょたちが、個性あふれて可愛かったので、いまの金魚を育てるのにいまいち気乗りがしていなかったのも、よくなかったのだろう。

さいわい、ねこのほうは元気で、朝晩が冷えてくるにつれ、あぐらをかいた腿に乗ってきたり、寝ている布団にもぐりこんだり、昼はたたんだ布団にもぐりこんで寝たり、じぶんなりにやり過ごしてくれている。

いちにち16時間とか、信じられないほどの時間を寝て過ごしているので、なにもできないのに月日の過ぎるのははやい。キンモクセイも散り終わり、そろそろ霜月も近づいて来る。
のこりのきんぎょも、ぶじに冬を過ごせるとよいのだけれど。


銭湯のフェアリー

街角にヴィーナスがいるというならば、銭湯にもフェアリーがいる。

 

私がそのばあちゃんに会ったのは春くらいのことだ。ゲットーにふさわしい古式な建築様式の銭湯に通っているのだけど、以前は通うのは夜も8時過ぎてから。だが、その頃は銭湯に行く時間が夕方あたりだった。それで、私はそのばあちゃんに遭遇したのだった。

 

私があかすりで背中をんしょんしょとこすっていると、その腰の曲がった小さなばあちゃんは、人のよさそうな脱力した笑顔を浮かべて、「背中こすってあげようか」と声をかけてきてくれた。年齢的に、逆はあってもそれはないだろうと思って遠慮したのだが、「いいからいいから」と言われて、ついつい背中を流してもらった。恐縮しつつも、すみずみまで背中をこすってもらって気持ちよかった。流してもらって、「今度は私が」と言ったのだが、「いいよいいよ、私はもう流しちゃったから」と固辞されてしまった。

 

それから何度か銭湯で遭遇し、そのたびにばあちゃんはニコニコと「背中ながしてあげるからね」と声をかけてきてくれて、それに甘えた。

 

とかく人情がないというヨノナカ、下町ならまだしも、と思うのは甘い幻想だ。平成の御代、かつては野良猫が闊歩し、ガキどもの声の響いていたゲットーも、すっかり活気なくふれあいなく、他人行儀に過ごすのがデフォルトだ。

 

そんなこんなで、人の良いニコニコしたばあちゃんを、私は心ひそかに「銭湯のフェアリー」と呼んでいる。

 

曜日や時間帯の都合もあり、フェアリーとの遭遇も間遠になっているけれど、いつまでもお達者で、そして幸多かれと思っている。つまるところ人の値打ちなど、死ぬときにそう想ってくれてる人がいかばかり居るかというところにかかっているのではないだろうか、と思うこの頃。

 

ねこは驚くほどキンカンが好き

最近ちょっと驚いたこと。

蚊に刺されて、伝統の虫さされ薬「キンカン」をぺたぺたと脚に塗っていた。そしたら、うちのねこが寄ってきて、くんくんくんくんと必死にキンカンの匂いを嗅ぐ。みるみる目に涙がたまってきて、ぷるぷるっ、と頭を振って涙を飛び散らかせて、それでもなお、必死にキンカンを嗅ぐ。

しまいには、勇気を出してペロリとなめていた。……猫のあんな表情は見たことがない。とてつもなくマズそうな、何とも表現しがたいフクザツな顔をしていた。

キンカンは虫さされには実によい薬なのだが、こんな落とし穴があろうとは。

今日も蚊に刺され、キンカンを取り出す私。しょうこりもないねこが何とも愛おしいことだよ。


ちなみにねこは、遊んでほしいときは、私の背中にどすどすと前足をかけてせっつく。最近は朝起きると、人の背後に音もなく忍びより、でんと座り込む。こちらが無視をしていると、どつきがはじまる。

きんぎょたちの名前も何となく決まった。しかしあまり個性がなく、さびしいものがある。きんぎょは個性的であってほしいものだ。柄とかの問題ではなくて。

きんぎょリターンズ

病気のどさくさで管理もできなくなり、きんぎょたちを死なせてしまったのは、とても悲しいことだった。
オトコマエで賢かった紅丸や逞しかった雪ちゃんをしのぶにつけ、あとで一匹追加で買って生き残った琉金のアラばかりが目について、また気力が湧かないこともあり、水槽はほとんど放置していた。

あまりにも殺風景なので、何とかしようと連れが言い出し、私も不精だが何とか上大岡の野本養魚場まで出かけていって、らんちゅうの仔魚を四匹と、黒白模様の蝶尾を一匹、買ってきた。らんちゅうの成魚は3000えんをくだらないので、色変わりもしないチビ金を、宝くじのようなノリで買ってみたのだった。
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とはいえ、らんちゅうは弱いし、仔魚はなおさらのこと。
というより、まともに水替えもしていない水槽に入れたのが悪かったのだろう。四匹ともが二日で全滅して☆になった。ベンケイソウの植木鉢の中に埋めた。

沈んでいたのだが、連れがなおも「水槽をあかるくしよう」と言うし、それももっともなので、今度は近くのホムセンで、らんちゅうとは名ばかりの安いハネ魚(だろうなぁ)を買ってきた。別にうちはマニアではないので、らんちゅうのデキ不出来をうだうだ言う気もない。ただ元気で泳ぎ回っていてくれれば言うことはない。
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で、今のところ元気に泳いでいるし、エサもわらわらと食べている。水替えとか、生き物の世話は大変だが、すこしは心のなぐさめになるかもしれない。これらの金魚たちの個性がだんだんわかってくるといいのだが。まだ今のところ名前もつけてない。知っていくうちに名前は決まっていくだろう。

誕生日のしあわせ

つい昨日がたんじょうびだったが、さすがに齢を重ねたので、何ということもしなかった。
ただ、近所にクジラを食べさせる店があり、そこでいつもより100円ほど高い定食を食べてみたりした。

ちなみに、クジラのユッケはとってもおいしい。かしこいクジラを食べたりするのもずいぶんな話かもしれないが、牛や豚の立場というのもどうなのか。愛するウミガメの刺身も食べてみたことがある。一緒に生きている、と感じる。
なんにせよ、乱獲とかも過度の経済動物化とかも、自然との調和がとれなくてよくないとは思うけど。

自分が死んだら動物に食べさせたり、土にそのまま埋めて養分にしたりすることが、いちばん自然な「輪廻」なのではないかと思うが、あまりにも原始的すぎるであろうか。

誕生日の話からそれてしまった。誕生日のうれしいところは……誕生日じゃなくてもうれしいのだが……、望外に、人から声をかけてもらえることだ。世間と隔絶したような生活を送っていたりすると、よけいに沁みるものがある。あてどない海のようなヨノナカで、知り合った人たちから「生きてるよ-」とシグナルをもらうだけで、海のうえで他の船を発見したような、ほっとしたきもちになる。人様に「すこやかたれ」と心から思えるひとときが訪れる。

おおきな海にたらい船のような毎日だが、それでも旅はつづいている。

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